奇跡の医療と腸内細菌
奇跡的な治療ってあるんですか?と聞かれたことがある。でも奇跡は日常診療では中々得られることがない。救急医療を思い浮かべる方も多いと思うが、それでも奇跡はなかなか起きない。私は救急医療センターで集中治療室の医師として勤めた経験がわずか半年ながらあるが、その間奇跡的な治療効果というのは残念ながら見られなかった。センターに患者さんは救急車で来院するのだが、内臓疾患にしろ怪我にしろ、中毒にせよ、ほぼすべての方が予想通りの転帰を辿った。*1
医師になって15年、奇跡的な医療というのは存在しないよね、という諦念に風穴が開いたのが実は2013年。The New England Journal of Medicineという世界で最も権威ある臨床医学雑誌にある論文が掲載された。ある病気に対する従来治療の奏効率が30.8%に対して、その論文の斬新な治療の効果は何と93.8%!!これはもう圧倒的で、従来治療をするのが悪と言ってもいいくらいな上、副作用は無い。
その治療は何か、といえば実は便移植。その対象となった病気は偽膜性大腸炎という。大部分の人には聞き慣れない病名と思うが、抗生物質等で正常な腸内細菌叢が破壊された時に、Clostoridium difficile(クロストリジウム・ディフィシール)という細菌が異常繁殖した結果起きる大腸の炎症だ(図参照)。これに対する治療は基本は保存的治療(適切な栄養を取り様子を見るということ)だが、こじれた場合には特別な抗生物質(バンコマイシン)*2で治療するのが教科書的。ところが、偽膜性大腸炎は結構治療しづらく、図の左側、グラフの右がバンコマイシンによる治療成績だが、高くて30%と奏効するとは言い難い。
これに対して便移植。なんと80%〜90%の奏効率で、しかも副作用がない。通常従来の治療と新しい治療の差があっても40%が55%になった、とかが普通なのでこの差は圧倒的だ。論文が出て余りの差に驚愕してすぐに大学院生に紹介したが、抗生物質をはじめとするあらゆる最新治療を差し置いて、結局は元気な他人の大便を移す単純さがとても良かった。
ところで、どうやって移植するの?という疑問に対しては千葉大のHPをどうぞ。有り難いことにあの塊のまま移動するわけではない。
移植するのは腸内細菌叢
さて、上記HPにあるように、便移植の本質は人の腸内に生息している莫大な数の細菌からなる腸内細菌叢の移植、である。
人の腸内細菌はWiki(腸内細菌)によれば、約3万種類、1000兆個が生息し、重量にして1-2kgになるという。それが作っている腸内細菌の生態系をまとめて腸内細菌叢という。年齢とともにその細菌の数は変化し、また個体差も大きい。腸に良いとされるビフィズス菌の仲間は10-20%程度を占めるようだが、生後間もなくから増え始めて幼児期にピークを迎えた後、年齢とともに減っていく。腸内細菌叢の個体差は生後間もなくから始まり、双子でもその差は大きいし、抗生物質*3で菌が死ぬと分布が違ってくる(図参照)。
腸内細菌叢は精神状態にも影響する可能性も
最近の腸内細菌叢に関するトピックはこの腸内細菌叢が様々な人の健康状態に影響し、その中には精神状態も含まれるということ。
腸内細菌叢が腸内に分泌する物質群を通じて、体内のホルモンやサイトカイン(免疫系細胞の放出する生理活性物質)の動態を変化させ、不安や恐怖といった感情面や、知性に関しても変化させるのではという研究が動物を中心に相次いている。近年はサイコバイオティクスなる述語さえできた。敢えて日本語にすると精神細菌学かな?
でも実際どれだけ影響するのだろう??
…が、まあそうはいっても抗生物質を飲んで腸内細菌が物凄く死んだとしても経験的にそれで精神状態が大きく変わった、ということは無い。下痢や便秘が続くと確かに気分は変わる。ただそれは腸内細菌叢の変化というよりも、下痢でげっそりしたり、便秘の閉塞感という物理的な問題のほうが大きく影響している気がするので、実際に腸内細菌叢の変化が急性の影響を出してくるかというと個人的にはそこまででは?と疑問に思う。
実際のところ腸内細菌叢というのは未だに謎が多く、誰もが知っている大腸菌*4も実は腸内ではマイノリティ。単に外で培養した時に沢山増えたのが大腸菌で、メジャーだと勘違いされたためにあんな名前になった。良い腸内細菌がメンタルに効果的として、ビフィズス菌や乳酸菌が本当に良ければ、ヨーグルトを沢山消費する現代、もっと健康な人が増えても良さそうだが、実際にはメンタルヘルスは昔に比べて少なくても良くはなっていないだろう。
例えば子供やお年寄りなど必ずしも症状を言葉で表明できない方々の辛さの背景に実は腸内細菌叢が、というのはある気はする。それに昔から腸脳相関といって胃腸の不調は確かに脳から身体への様々な連絡を変化させることが知られているので、まあ腸内細菌叢は良いに越したことはないものの、その良さの要因が現時点ではわからないので、だったら健康な人の大便使ったほうがてっとり早いと言えそうだ。
超健康な人からの便を何かカプセルみたいにして売り出すことが出来れば、皆んなが理想的腸内環境を得られるのでは?と思うのだが、と思ったらアメリカではもうカプセルになっているのね…。まだ偽膜性大腸炎に対する臨床試験という位置づけ。
胃の中でカプセルが溶けることだけは避けていただきたい(笑)。精神科分野では過敏性腸炎とか、慢性疲労症候群などに効かないかな…。いつかサプリとして売り出されるのでは、とも思うが、誰がドナー(大便の提供者)になるんだ、というのが一番の疑問だったりする。
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尚、今日の話題にすごく興味を持った方、同じく精神科医のblogのようだが、
こちらをどうぞ。
腸内細菌とメンタルヘルス(その1 これまでのプロバイオティクスの歴史 part1) : 場末P科病院の精神科医のblog
拙blogなど比較にならない詳細な論文解説が読める。
*1:どんな病気でも苦しい状態から元通りになることは劇的で個人的な奇跡と言えなくもない。ただ、その治療効果そのものは予め予想できる範囲内であることが殆どで、そういう意味で奇跡は殆ど無い。マスコミを賑わせている超高額抗がん剤オブシーボは、非常に予後の悪かった悪性黒色腫に光明をもたらしたので奇跡的治療薬と言えるかもしれない。インターフェロンに変わる大幅な治療奏効率を誇るC型肝炎の抗ウイルス薬も奇跡の薬の1つ。
*2:便移植の適用疾患は今後広がる可能性がある。特に潰瘍性大腸炎のような炎症性腸疾患。ただし偽膜性大腸炎ほどまでの奏効率ではない。
*3:抗生物質は病気を起こす悪い菌だけでなく良い細菌も平等に殺す。だから抗生物質を服用すると下痢になりやすく、抗生物質に耐性を持ったビフィズス菌製剤(ビオフェルミンRとか)が処方されたりする。
*4:余談だが大腸菌は実験室では実験によって使い分けるくらいとても沢山の種類を使う。実験室で増えやすく、遺伝子実験の友であり、もちろん汚くもない。