ASDを理解するために(1)
ASDはAutism Spectrum Disorderすなわち自閉スペクトラム症の略であり、比較的新しい言葉だ。診断名としてはアメリカ精神医学会の診断マニュアル第5版(DSM-V)から正式に使われている。第4版では広汎性発達障害というカテゴリーに、自閉症、高機能自閉症そしてアスペルガー症候群が含まれていた。今は全部ASDに包含されたので、わかりやすいといえばわかりやすいが、概念が随分と広がった。
スペクトラムって何だよ?と疑問に思う人は多い。連続体って意味だ。自閉症・発達障害と言っても結局程度は様々で、ある性質は変わっていても他は普通の範囲だったりする。そんな曖昧な「自閉的」部分を併せ持ちながら、全体の性質としてはモザイク模様で健常人(何が健常かは難しいがあらゆる性質が一定の範囲内に入る人たちだ)、極端な人は自閉的性質で塗りつぶされる。
さて、自閉症ってなんですか?発達障害ってなんですか?という質問を受けることがよくある。それは当事者家族であったり、医療関係者であったり、学校の先生であったりと。
とりあえずASDとは何か、特に子どもASDを理解するのに最近勧めているのはこの本で、
自閉症スペクトラム -10人に1人が抱える「生きづらさ」の正体- (ソフトバンク新書)
- 作者: 本田秀夫
- 出版社/メーカー: ソフトバンククリエイティブ
- 発売日: 2013/03/19
- メディア: 新書
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信州大の本田秀夫先生の著作。
大人のアスペルガーがわかる――他人の気持ちを想像できない人たち (朝日新書)
- 作者: 梅永雄二
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2015/03/13
- メディア: 新書
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梅永先生のblogもどうぞ
http://blog.livedoor.jp/umechan0701/
両先生の著作からは以前はASDの理解が随分と足りなかったのを感じる。
実のところ私が医者になった2000年あたりに、ようやく日本の普通の精神科医がそろそろ自閉症やアスペルガー症候群の人たちをきちんと認識ないといけないよね、という雰囲気が広がってきた気がする。研修医だった当時、振り返ると統合失調症や人格障害と誤診されていたASD患者が多かった。梅永先生の著作にもあるが、独特な認知・思考様式が被害妄想を発展させやすく、時により統合失調症の妄想とも区別し難いのだ。エキセントリックで衝動的な行動が前面に出ている時には、境界性人格障害とされがちでもあった。
当事者の著作の幾つかが一般へ果たした啓蒙の役割は大きい。
例えば、ドナ・ウイリアムズ
- 作者: ドナウィリアムズ,河野万里子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2000/06/28
- メディア: 文庫
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テンプル・グランディンも有名。
- 作者: テンプルグランディン,マーガレット・M.スカリアーノ,Temple Grandin,Margaret M. Scariano,カニングハム久子
- 出版社/メーカー: 学研
- 発売日: 1994/03
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火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)
- 作者: オリヴァーサックス,Oliver Sacks,吉田利子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2001/04
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ただ、こういった著作を読んでASDとはこうなんだと理解するのも危険なことは本田先生も強調している。そもそも圧倒的多数のASD当事者はこんな本は書けないし、著作を書けるだけの選ばれた才能の持ち主の感じ方が普遍的とも言い難いはず。
実際臨床をやっていて痛感するのはASDと一言では言えないバラエティに富んだ個性があるので、ASDだからこれ、という公式はない。だから、対応も決めつけをせずに個別的であるべきだが、こんな特徴はありがちだよね、という部分を頭に留めおけば、定型発達者*1も一々ASD者の行動に腹を立てたり傷ついたりしないで済むだろうなと思うわけです。
*1:定型発達(https://ja.wikipedia.org/wiki/定型発達)ってなんじゃい?といつも感じるわけだが…。ざっくり言って、子供であれば、年齢に応じて期待される発達の程度にほぼ万遍なく遅れが無い子、大人であれば、所属するコミュニティや社会/民族集団で「常識」とされることが苦もなく共有できている人のことを指すと考えて良いのではないかと思う。もっともこの程度の定義にしてしまうと、学習能力の高いASD者は定型発達者と区別がつかなくなるのでは…と疑問もわく(自分で書いておいて何だが)。
2015_購入した医学系一般書籍(1)
脳を鍛えるには運動しかない!―最新科学でわかった脳細胞の増やし方
- 作者: ジョン J.レイティ,エリックヘイガーマン,John J. Ratey,Eric Hagerman,野中香方子
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2009/03
- メディア: 単行本
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運動することで精神症状を改善する、しうるというのはこの本で認識が広がったと思う。もちろん、それは仮説に過ぎず、肯定的な評価を下す研究ばかりではないとはいえ、実感として一定の真実があると思う。とにかく手はやたらと動く院生O君からこの本を勧められた時には、そのキャッチーなタイトルに、まともな本とは思えなかったのだが、読んでみたらまともな本だった(疑ったO君、ごめんなさい)。実際、イギリスの様々な疾患に対するNICEガイドラインでも、軽〜中等度のうつ病に関しては治療の第1選択として運動が推奨されている。ただし一方で、否定する研究結果がやはりあることに注意。
kenko100.jp
- 作者: 須田桃子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2015/01/07
- メディア: 単行本
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間もなく2年経つかと感慨深いSTAP細胞事件(というか騒動)。この騒動は1人のおかしな女性科学者とそれに踊らされた男性科学者たち(主要人物は3人)によって引き起こされたわけだが、何せその不正っぷりがすごかったおかげで大学院生の指導教官としてはやたらと仕事が増えた点、恨めしい。iPS細胞のように、期待が大きい医療に関しておかしなことがあると、様々な人を巻き込んだ大騒動が起きることがよくわかった。
一般に衝撃を与えた最初の発表会見は2014年1月29日。当時私も凄い研究出た!と思って、原著論文を読んだのだが、当時の院生とのやりとりをみると、2/21時点最初の疑念を院生に知らせ、2/25の時点ではまだ全体が捏造とは考えていなかったこともわかる。そして3/9には捏造の可能性が高いと考え院生に残念とのメールを書いていた。とりあえず海外研究者の掲示板で実験が再現できない、という声が大きいのが印象的だった。
日経サイエンス2015年3月号「STAP細胞の全貌」特集と併せて読むと満足度は高い。
- 出版社/メーカー: 日経サイエンス
- 発売日: 2015/01/24
- メディア: 雑誌
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- 作者: 押田茂實
- 出版社/メーカー: 祥伝社
- 発売日: 2014/12/01
- メディア: 新書
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著者は元日本大学法医学教室教授であり、数々の鑑定を手がけた。特に足利事件や、東電OL殺人事件など、有名な冤罪事件のDNA型判定において中心的な役割を果たしたそうだ。誤った判決に対する怒りが本書の底流にあり、間違った判決を下した裁判官の実名と、叙勲歴まで記す。
読もうと思って取ってあるのはこの本。
- 作者: 勝又義直
- 出版社/メーカー: 名古屋大学出版会
- 発売日: 2005/10/20
- メディア: 単行本
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自分もDNAは扱うが、今ではキットを用いて様々な試料から簡単にDNAを単離しうる。ただし、扱いに気をつけないと試料から検出したいDNAではなく、試料が実験室に来るまでに付着した全く別人のDNAを増やしてしまうことになりかねない。
単に証拠が出たというだけでなく、その証拠の信頼性・再現性は常に気を配られるべきだ。
怖い本から診断の難しさを知る
- 作者: スザンナ・キャハラン,澁谷正子
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川マガジンズ
- 発売日: 2014/05/31
- メディア: 単行本
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感動的で貴著な本。
以前治る精神科の病気としてヘルペス脳炎を書いた。
実際、できるだけ早く診断を違えず治療を行えば治る。
ところが、しばしば幻覚や妄想で発症する脳炎は別な精神科疾患に誤診される。最初の医者が間違えるくらいならともかく、何人にもの医者にひたすら誤診され続け正しい治療にいつまでたっても辿り着かなかったら悪夢だ。
著者、スザンナ・キャラハンは本にある病気になった時24歳。
訳者のあとがきにあるように、本書の構成は、前半が著者の次第に悪化していく詳細な精神症状と、医師による相次ぐ誤診、診断が確定されない中どんどんと精神状態が悪くなっていくさまと困惑する周囲の記述は、ホラー小説を読むかのよう。
実は読む前から診断名を知っていた。著者は夜な夜なトコジラミ*1に噛まれているのではないかという考えに取り憑かれてしまう。だが実際にはそれは妄想というもので…。
次第に我を失い、誰から見ても病気だということが明らかになってくる著者に対して、入れ替わり立ち替わり出てくる医師がうつ病、躁うつ病(双極性障害)、統合失調症…と誤診につぐ誤診を重ねる。
精神科医でもあるので、この前半は読み進めることが非常に辛かった。我が身を振り返っても、24歳という若さで幻覚・妄想が出て来た場合、統合失調症ないしは双極性障害と診断する可能性は高い。あえて言えば、突然の発症、それまでの社会適応からして、『突然症状を呈する背景に何かがあるには違いない』という確信が持てた時に、見かけの症状からの診断を疑うことができ、徹底的な検査を繰り返すだろう。
スザンナ・キャラハンは何度も、精神疾患の確定診断から長期に不毛な治療へと導入される危機にさらされた。高名な神経科医から「きっとこれは器質的な(身体に原因のある)疾患だ」と疑われて血液検査を受けても正常だったこともあり、一時は匙を投げられる。本人が書くように、本当にたまたま同じ病気を疑える病理に詳しい医師に出会えたこと、その医師でさえ3年前に経験していなければ果たして診断が出来たことさえわからない。
診断に至るまでの間、離婚してバラバラだった両親との絆、そしてボーイフレンド(恐らく彼も若いだろうに!)の示す彼女への献身的な愛情が本人を支え続けた。信じがたいほどの彼女への愛と信頼。諦めなかった彼らに感動と尊敬の念を禁じ得ない。
診断が確定すれば治療は一応進む。ただ、絶対的な治療が確定されているわけでもなく(現在もそう)、果たして上手くいくのかはハラハラする。勿論、本書を本人が書いている以上、回復したはずだとはわかっているのだが...。
本書は、まれな病気から回復した本人が書いただけでも貴重だが、診断過程、そこに至る本人と周囲の人間の葛藤、そして回復した患者の心理が決して晴れやかなものじゃあ無いことに心が痛む。
本筋とは離れるが、著者が若干24歳でニューヨーク・ポスト紙の記事をしっかりと任されている点や、周囲からの信頼を得ていることにも驚く。学生時代からインターンとして同社に所属し、活動していたこともあるのだろうが、アメリカ社会と日本との差を感じる部分でもあった。
(ところで似た書評がアマゾンにありますが、私です)
*1:トコジラミは別名南京虫 吸血昆虫サシガメの仲間(https://ja.wikipedia.org/wiki/トコジラミ)
糖尿病とアルツハイマー型認知症
糖尿病はアルツハイマー型認知症への大変強力なリスク因子になり得そうだというのは知っておいて良い。参考にするのは北九州は福岡県久山町の住民を対象にした大規模疫学調査、久山町研究*1。
これはそこから持ってきた図(一部改変)だが、脳血管性認知症とアルツハイマー型認知症において、耐糖能異常(ここでは簡単に糖尿病と考える)と、高血圧症の発症リスクへの影響を示している。数字は相対危険率なので、耐糖能異常も高血圧もない人に比べて、それぞれがある場合にどれくらい発症しやすくなるかを示している(単純に何倍というのはちょっと統計的には抵抗があるけど)。
さて、見てわかるだろうか、脳血管性認知症であれば、耐糖能異常があれば何もない場合に比べて4.2倍、高血圧なら4.1倍、そして両方なら5.6倍の危険率になるということで、わかりやすい。
一方、アルツハイマー型認知症は、高血圧単独だとなんと0.9倍で危険率は何もない場合に比べて低くなり、耐糖能異常単独では逆に4.6倍、高血圧と合併すると2.3倍と下がる。つまり、耐糖能異常は単独でアルツハイマー型認知症の危険因子であり、要は糖尿病予防がアルツハイマー型認知症発症予防に繋がる可能性があるということだ。高血圧って良いの?という疑問はここでは逃げます…
さて、脳血管性認知症は、動脈硬化などで血管が細くなり、要するに脳に行く血管が細くなったり、完全に詰まるとその先に栄養が行かないことで発症する。だから、動脈硬化を起こす高血圧、糖尿病が危険因子になるのは両方納得ということ。書いたように、わかりやすい。
糖尿病はなぜアルツハイマー型認知症になりやすいのか?
仮説ではあるけれど、それを考えるための前提知識は2つ。
①脳神経はブドウ糖(血糖)を唯一の栄養とする。
②糖尿病はインスリンによる細胞内に血糖(栄養源)を取り入れる(同化)作用ができなくなる*2。
つまり、糖尿病になると神経が、栄養剤である血液中のブドウ糖を言ってみれば食べることができなくなりその結果として死んでいく。それは脳の萎縮が顕著に見られるアルツハイマー型認知症の発症過程として一定の合理性を感じる。
ということであれば、糖尿病はやはり予防していくべきなのだ。
さて、糖尿病がインスリンの不足をもたらす病気であり、それが要因となってアルツハイマー型認知症になるとするならば、ではインスリンそのものが抗認知症薬として働くのでは?という疑問が成り立つが、それは正しい。
インスリンはアミノ酸が連なったポリペプチド(もっと繋がるとタンパク質という)であり、飲んでも腸管で分解されてしまう。だからコラーゲンなんかも飲んだって無駄だと思うんだけど… かといって皮下注射で補って、というには低血糖が怖い。なので、点鼻スプレーの活用となる。そう、実は鼻粘膜は脳に通じているので、鼻にスプレーして薬にするのだ。幾つかの研究では確かにアルツハイマー型認知症に効果的のようだが…またいつか。
ところで、インスリンを最初に抽出したのはバンティングとベスト。バンティングはカナダの生理学者でこの功によりノーベル賞を受賞するが、研究者としては一発屋でその後は特筆すべき業績がなかった。ベストは優秀な院生でバンティングの助手を務めたが、ノーベル賞共同受賞はベストの指導教官で彼らに部屋を貸しただけのマクラウドという教授。バンティングはそのことに大いに怒り、ベストに賞金を分け与えたという。
大学時代私が生物の授業を受けた丸山工作先生はこの話題がいたくお好きで、本まで書いていた。マイナーすぎる著作だとは思うが…
- 作者: 丸山工作
- 出版社/メーカー: 東京化学同人
- 発売日: 1992/12/10
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*1:久山町研究とは(http://www.envmed.med.kyushu-u.ac.jp/about/) 久山町?とピンと来ないかもしれないが、九州は福岡市に隣接した人口約8000人の町。久山町研究は九州大学の研究チームが1961年に始めた、この町の40歳以上の全住民を対象とした大規模な健康調査、疫学研究である(医学生や研修医なら知っているかと思っていつも尋ねてみるが誰も知らないのはちょい寂しい)。この久山町、実は住民の年齢構成、職業構成、栄養状態が日本の平均とほぼ同じらしく、久山町を研究すれば日本の現状がわかる、ということになるのですごいのだ。
*2:医学生に糖尿病って何?と質問すると、「血糖が下がる病気」と答えて教師からダメ出しくらうのが毎年のパターンで微笑ましい。これはインスリンが血糖を下げるための物質だと誤解しているから。実はインスリンは細胞にブドウ糖やタンパク質を取り込ませる、要は栄養吸収促進剤なのだ。糖尿病とは、細胞がインスリンの抵抗性(https://ja.wikipedia.org/wiki/インスリン抵抗性)を示す病気であり、インスリンが効力を発しづらい病態になっている。なので、糖尿病になると痩せていくのである。
片頭痛は早めに診断してもらおう
筆者も抱える片頭痛、悩む人が多い割に、正しく診断されていない。
特に子供。何せ、頭痛というのは熱を出すでもなく、その痛みを検査する手段もない。完全に主観的な体験なので、頭痛に無縁な人にはまるで理解されない。
データが有るわけではないが、腹痛をほとんどの人が経験するわりに、頭痛は経験しない人がいるようだ。私の妻も「頭痛なんて昔は経験したこと1度も無かった」という。
我が息子も頭痛とは無縁のようで、お腹痛いは口にするが、「頭がいた〜い」と苦悶した姿は見たことが無い。それはそれで喜ばしいのだが、片頭痛患者が一体何歳からその痛みを持つのか、とこの前疑問に思ったのでそのご報告。
片頭痛と発症年齢については、日本語の論文は少ないが、子どもの片頭痛に関して詳しいサイトは英語で探すことができる。
例えば、Migraine Research Foundation (片頭痛研究財団)のサイト。
学齢期における片頭痛の有病率は10%、片頭痛患者の50%は12歳以前に発症し、思春期前の片頭痛発症年齢中央値は、男の子で7歳、女の子で11歳
結構若いのだ。なぜ男の発症は早いんだ?
私は、小学生に上がる頃には頭痛が始まっていたので発症は恐らく6-7歳。
保健室に行っても「熱が無いから大丈夫」と教室に戻るように促され、保健室を出たはいいけど、頭が痛いので教室に戻ることもできず、途中の階段でうずくまっていた経験があったりする(想像するととっても可哀想な子供に思える…)。
日本語論文では、自己申告アンケートの結果がある。飯田栄俊氏の「片頭痛診断の遅延状況」によれば発症年齢が若いほど、診断までの経過年数が長いという。
対象とした44例における片頭痛の発症年齢は平均18±7歳。25歳までに発症している場合が多い。一方、診断を受けたのは平均26±8歳。発症から診断までの経過年数は、発症が20歳を超えていた15例は5.3±3.5年。それに対して、20歳以下で発症した29例は9.5±5.9年。
平成14年の論文だが、要するに若くして発症した片頭痛患者は平均10年放っとかれているわけで、考えさせられる状況だ。私がちゃんと診断されたのも18歳なので、発症から11-12年経過。医学部に入っていなかったらいつになったことやら。
頭痛の痛み、というと「あぁちょっと頭が重いのでしょう?」という認識でいる人も多い。そんな人の中にも片頭痛持っているんだ〜という人がいて、外来問診時に仰る方もいるが、恐らくその人達は片頭痛の痛みをちゃんとは経験したことはない。「反復性」「生活に障害を来す」「刺激への過敏」が診断のためのキーワードだ。尚、しばしば頭痛の予兆として挙げられる「閃輝暗点」は必須項目ではありません。
そして、ほんまもんの片頭痛発作時に、動くことはほぼ不可能である。
割れんばかりの頭痛に加えて、激しい嘔気(ときに嘔吐も)と光や音に対する過敏によって、暗く静かな部屋に横になっているしか無い状況となる。もちろん、横になったからといって改善するわけではなく、やや過呼吸気味になりながらその辛さに悶え苦しみつつ時間が過ぎ去るのを待つしか無い。
幸いにして「発作性」なので、3〜4時間もすれば何とか動けるようになり、その後の12時間以内には相当程度まで改善する。
これが、1年に1回程度ならまだしも、酷い時には1週間に数度。
なので、その経済損失は莫大なものだ、というのはこの前書いた。
ということで、もしあなたの子供が「頭が痛い」と言ったらとりあえず片頭痛の可能性はしっかり疑おう。特に男の子は小さいうちから。
さて、この苦しい片頭痛、実は終わりがある。大体60歳前後でほぼ消失し、70歳を超える人にはほぼ無いという。実際、私の母、叔父ともに片頭痛を抱えていたが、60歳を過ぎた頃消失したようだ。年を取るにもいいことがあるもんだ。
幼児期健忘ってなんだ?
認知症になっても古い記憶は保たれているという。だから、認知症の介護において、自分の歴史の中の古い部分を引き出すことは、良い介護にも繋がる。自分が知っていることを相手に伝える、ということは自尊心を保つのに役に立つ*1。では一体どのくらい古い記憶まで普通持っているものだろう。小さいころのことよく覚えているぞ、という人でも1歳の時に体験したことを目に浮かべられる人はほとんどいないはず*2。
私の場合、一番古い記憶は3歳か4歳。近所の公園で親戚の皆と遊んでいる時に端っこでうずくまっていたような記憶がある。理由はわからない。でもそんな光景の写真もあるので、ずっと後になって作られた記憶かもしれない。大抵、そんな感じでしょ?
実際のところ、一番古い記憶というのは4歳~7歳くらいであることが多いようだ。特に5~6歳に集中する。でもこれって考えてみると不思議なことで、若い頃は、記憶力に優れた時期であるはず。字を読むのも書くのも、随分と小さい頃から学習して、それを今でも覚えて使っているわけだから。
実はそんな小さい頃の記憶を失ってしまっていることを「幼児期健忘」と呼び、それが何故なのか最近盛んに研究されている。
我々の脳には沢山の神経細胞が含まれている。この神経細胞は長ずると毎日どんどん死んでいくと言われるが、基本死ぬと復活することは無い。だから脳卒中を起こすと場所によっては身体が麻痺したままになるわけだ。ただし、1箇所神経細胞がとりわけ多く新しく生まれている(新生という)場所、そこが「海馬」。アルツハイマー型認知症で萎縮する場所として有名。この海馬での神経細胞新生、一生続くのだが、幼少期にとりわけ盛んなのだ。そう、この海馬で神経新生が盛んであることが、実は「健忘」と深く関わっているらしい。
今日は何をした、というような記憶(エピソード記憶)は海馬を通じて記憶される。我々が経験することは日々そうやって海馬を経由して、最終的には大脳皮質に格納されて記憶される。
〜エピソード記憶の流れ〜
出来事⇛感覚器官(目や耳)⇛海馬⇛大脳皮質
さて、最近の研究では何かを思い出すときにも、しばらくは海馬にその時の「痕跡」が残っていて、思い出すときにはそれを辿るということらしい。その海馬で続々と神経が作られていることは逆に言えば古い神経細胞は置き換えられてしまうことを意味する。「辿るべき痕跡」が無くなるってことだ。
つまり、幼少期は海馬で神経新生が盛んだから、後になって思い出そうとしても、辿るべき痕跡の場所にはすでに新しい神経細胞が出来上がり、新しい記憶の痕跡に上書きされてしまっている。だから、その時期すなわち3~5歳くらいの記憶というのを我々は持っていないのだ*3
*1:認知症老人の診察をしていて思うのは自尊心がつくづく人間にとって大事であり、それがあるために介護はやりやすくもやりにくくもなる。人の自尊心というのは、自分が何かを与える、ということによって保たれる部分が大きい。年長者の知恵を拝借したり、昔話を関心持って聞くのが介護技術の1つ。
*2:しばしば、とんでもなく昔の記憶、中には胎内記憶すらあるという人がいる。多くは生まれてからの経験が反映された偽記憶だろう。でも幼少期の子ども(3歳とか4歳)が、言葉を獲得する前の記憶を映像として持っていることは、息子を見ていて確からしいと思える。惜しむらくはやはりその幼少期の映像記憶は、言語獲得後に失われたり、修飾を受けてしまって、そのうちホントに無くなってしまうことだ。
*3:とはいえ、中には幼少期からの記憶を消せないという人もいる。私の知人は、フォトグラフィックメモリーを持ち、2歳以後の全てのシーンを覚えているという。そしてそれに苦しんでいるようだ。 映像記憶 映像記憶 - Wikipedia
漢方ってなんだ?
現代医学的エビデンス至上主義者にとって漢方に代表される東洋医学というのは現代医学頭にとっての収まりが悪く、言ってみれば敵対的な存在だ。条件を統制した上での結果を積み上げる現代医学と、そもそも条件統制の発想がそぐわない東洋医学との会話は噛み合わないこと甚だしい。
かく言う私は学生時代東洋医学研究会に属し、部長まで務めたが、かつてお世話になった先生方とは絶縁状態。経験医学としての側面を尊重するのは良いのだが、あまりに昔々の知恵ばかり参照することを至上とする雰囲気に耐えられなかったし、疑似科学に親和性の高い先生方とは同じ事象に対する共通理解を持つのが困難と考えたのだ。
ここで言う疑似科学って例えばホメオパシー(https://ja.wikipedia.org/wiki/ホメオパシー)や
Oリングテスト(https://ja.wikipedia.org/wiki/O-リングテスト)。いずれも普通に読めば、
これを信じるってどういうこと?としか思えないが、日を改めて論じます。
そんな漢方に対して思うこと。Twitterまとめ風に。
ちょっと前の記事だが、Japantimesの記事
http://www.japantimes.co.jp/text/fs20120417a3.html#.T-MstrM9Wrl
漢方の現状についての簡単な記事。相変わらず東洋医学vs西洋医学の対立軸で捉えている。
学生の頃から思うのだが、古典医学(伝統医学)vs現代医学である。
いわゆる西洋医学はもはや欧米諸国の業績だけでなく、日本を始めとした世界中の業績に依拠しているのだから、西洋医学なる呼び方は現実にそぐわない。
最近では医学部に東洋医学講座が増えている。実際2007年からは全大学医学部で何らかの教育があるらしい。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kampomed/63/2/63_121/_pdf
私が懸念を抱くのは、漢方をはじめとした東洋医学における理論(陰陽とか気・血・水とか…)なるものは単なる作業仮説、つまりとりあえず本態はわからないけれども、存在Xを仮定することで現象が上手く説明できるものだ、ということ。
それがきちんと学生に伝わってるのかが心配。言葉は悪いが、薬の効果を説明するのに有りもしない妄想が基になっているのだ。
(敵が増えた気がする…)
学生時代から漢方系の方々と接していて違和感を抱くのは、東洋医学派の現代医学に対する激しい線引きである。彼ら曰く、元の発想法が違うのだから、現代医学的理解をするのは筋違いだ。
いやいやいや、おかしいって。
東洋医学では人体の構成臓器を五臓六腑(https://ja.wikipedia.org/wiki/五臓六腑)と教えるが、例えばその中の三焦など存在しないのである。解剖が出来なかった古代中国において、作業仮説的に編み出した理論を、なぜそのまま教えようとするのか。実際に身体を開けて、そんな物は無いと確認したのだから、理論を変えよう。無いものをあるとして作った理論は変えようと思うのが普通の発想というもんだ。17世紀にガリレオが地動説を唱えて迫害された時代じゃないのだから。
いやまぁひとまず、東洋医学ではこう考えます、というのは良しとしても、現代医学的にはどう説明されるのか?
という視点が著しく欠けている。
東洋医学の理論は、現代医学の生理学を駆使して説明されるべき、せめて説明しようという努力がなされるべきだと思うのだが、ひたすら文字通り「古典」がいつまでも尊重される理由がよくわからない。
1つ、東洋医学の素晴らしい点は、不定愁訴を対象にできる点である。例えば疲れやすい、だるい、なんとなくお腹が痛い...こういった所見は検査に現れず、場合によっては精神的ストレスにその原因を求められ、精神科受診を勧められてしまう。
現代精神医学界で頻繁に用いられるアメリカの診断基準DSM-IV(最新版はDSM-V)には、身体表現性障害だの、疼痛性障害だの便利な病名もある上に、うつ病でも仮面うつ病という言葉がある通り、精神的な病気なのに症状は身体に現れるというのは、精神科の得意とするところ。
東洋医学は、身体症状として感じられるからには、どこかに異常があるのでしょうよ、という素朴な感覚を否定せずに、堂々と治療対象にしている点が素晴らしい。症状があるならそれを治療しよう。
だがしかし、そうであればなおさら、東洋医学的文法だけで症状を捉えようとするのではなく、果たしてその不定愁訴は、現代医学的にはどのように説明されるべきなのかを求めるべきなのである。そういいつつ、欧米人は結構ちゃんと不定愁訴を辛いよね、と理解を示す姿勢が
日本の医学界(普通の現代医学ね)と比べて明らかにある。
日本人はそういうのを気持ちが弱いからだと精神科マターにし過ぎ。現代医学を教える大学医学部なのだから、そこを探求して欲しいのですよ。でも残念ながらそういう文脈は見えてこない。所詮無理と諦めているのか。気・血・水とか、陰陽、虚実なんて言葉を使えば説明できてしまうから、もう必要ない、ということですかね。
また、古典=4000年に渡る経験値の積み重ねであり、素晴らしいという賞賛が多い。そこに何の疑念も抱かないのはどう考えてもおかしい。もう進化しないってことか?
学ぶところがあるのは確かだが、江戸時代、頭の中でこねくり回した理論ではなく、実際にどうなのかという事実を元に発展を見せていた蘭方に、前野良沢、杉田玄白をはじめとした医師たちが感銘を受けた。頭が固く、理論に固執しすぎた漢方医達の治療がコレラや天然痘をはじめとした感染症や、外傷、重篤な精神疾患には無力であったことなど忘れてしまったかのような漢方愛好家が多いのは困ったことだ。経験に基づく実証主義であるはずの漢方が江戸時代には理論的すぎて敗北したのが、なんというか現代の対立図式と逆転していて面白い。今の漢方好きの人は、現代医学は理論にそぐわないとすぐに否定する、みたいなことを言うのでね。江戸時代、それは蘭方医側の主張だったのだ。事実を見ろ、と。
もう1点、医学部教育における東洋医学教育では、東洋医学愛好家はいかがわしい代替医療ととても相性が良いことを忘れずに教えて欲しい。
しかしそのいかがわしさを理解してもらうのは難しいかもしれない。
私が学生時代、大変感銘を受けた程バカバカしいものが例の「O-リング」。医学徒ならば冗談として聞くだろうなと思っていたら、ある大学での漢方医の講演で「確かに効果があると感じました」なるお言葉があった。脱力した私の周りはそれに深く頷く医学生・薬学生だらけだったのだ。一刻も早くその場から逃げ出したくなったことを思い出す。
漢方薬に薬効があるのは紛れも無い事実。願わくばその作用機序、どういう病態を対象にするとどのようなメカニズムを通じて治療効果を発揮し得るのか、頼むからどなたか非常に頭の良い人に、現代医学的に解明していただきたい。