ADHDのペアレントトレーニング

読んで学べるADHDのペアレントトレーニング――むずかしい子にやさしい子育

読んで学べるADHDのペアレントトレーニング――むずかしい子にやさしい子育

ADHDの特性をどんなに説明されても、だからどうすりゃいい?と思うし、やはり一番接するのは親だ。ADHDの困った問題に対処する具体的対策が欲しくなる。


実際、時間を守らない、やるべきことにとりからない、自分の希望ばかり通そうとするといった場面で親はどうするか。普通は怒るし、時に怒鳴りもする。正直定型発達児はそれが有効だと思う(望ましいかはともかく)。しかしADHD児には残念ながら叱責が入っていかない*1。何度怒鳴っても、「怒られるの嫌だからちゃんとやるか」にならず、(年齢不相応に)同じ失敗を繰り返す。


もちろん、一定程度年齢行けばそういう感情は芽生え、学習もする。
でも普通の子ができるようになる小1〜2ではまだ難しい。


本書が提唱するのは幾つかの行動療法的手法である。特に「不適切な行動に対する効果的な無視と褒め方」が行動改変をもたらす手法に特徴があり、それは親としては教えられて意識しないとなかなかできない。


「無視」は親にとってしてほしくない行動を減らすために用いる道具(本書ではテクニックのことを道具という)である。とはいえ、この「無視」は我が子を無視して放っとけというのではなく、我が子の「行動」を無視するのである。子どもは自らの行動によって親の注目を惹きつけ、自分の要望を通そうとするが、その不適切な注目を取り去るのが目的である。一方、その後は褒めてあげないと身につけて欲しい行動が学習されないので、褒めるわけだが、それにもテクニックがいる。良い行いの最中もしくは直後に(犬と一緒)、してくれて嬉しいというトーンを声ににじませ、人格ではなく「行動」を褒める。「あら、良い子ね〜」じゃあだめで「食器を片付けてくれて有難う」みたいに。クラスに貼りだされた絵を見て「あなたが一番ね」なども不適切なことが多い。一番でないと良くない・褒められないというメッセージを伝えてしまう。「この部分の色使いがいいわあ」などが良い。


そもそもこの「注目を集める」というのが子供にとって物凄く大きい。


「好き」と言えない女の子に小学生の男はからかったり、いじめまでする。
肯定的でなくても注目が自分に向い、反応してくれるからだ。


なので、褒めるという肯定的注目すら得られなければ、子供は叱られてでも注目を得たがる。単なる罰や叱責が役に立たないのはそういうことだ。


ということでペアレント・トレーニング。昨今はそれをしている施設も多いから習うこともできるが、本書を家に持つことで独学も可能だろう。様々な場面の具体例とその時どうするか、が書いてある。
出版が2002年だが特に古いとは感じない。もっとも具体例の会話が訳書だけに日本的ではないと感じることは多い。


ちなみに、ここに書かれたADHD児への技法は、あらゆる子に対して望ましいように感じられるし、きっとより効果を出しやすいのだろう。大きな声じゃ言えないが、これでそんな簡単に行動変わったらADHDじゃないでしょ?と感じるのは確かだ…。


どのテクニックもそうだが、1つ1つためしてみるといい。我が子に当てはまらなければ拘らず、早々に撤退する必要もあるだろう。
アレント・トレーニングなので、学校で先生をはじめとした支援者の立場としてどうするか、といった点は本書の範疇じゃないことに注意。


オススメ度は★★★★☆

*1:叱責が入っていかないのはやはり脳の発達がその段階に至っていないからだろう。例えば、どんな子でも小学生になってオムツをしている子はいないわけだが、3歳でさくっと外れる子もいれば5歳まで引っ張る子もいる。5歳でようやく外れる子の3歳時にいくら叱責して外させようとしても上手くいかんでしょう。学習にはそれが入っていく時期(発達段階)があるということだ。  また学習内容によってはそもそもそれが出来ることになるのを考えるのが無茶ということもある。ネコを犬の群れに混ぜて、同じ行動させようと思っても多分一生かけても無理だよね、なんて例えは正しいか…。

ADHDの辛さ

ADHDの特徴といえば、「注意欠陥、多動、衝動性」だがそれらをベースにし様々な問題行動を起こす。


どっちにしろ、あちこちに注意が飛ぶADHD児、特に多動症状が強いとこんなことになる。

  • 幼少期より片時もじっとしているということができない
  • やりかけのことがあっても視界に入ったものに即座に衝動的に飛びつく

   ⇛ 物事を最後まで終えられない。

小学生に上がれば、

  • 教室でじっとしていられずふらふら歩き回る。
  • 人の話を聞けず途中で邪魔したり、脈絡のないことを思いつきで話し始める。
  • 忘れ物、失くし物ばかり。

といった感じで、こんな子が1人ならまだしも2人もいたら(いや1人でもか)学級崩壊の起点になりかねない。


問題行動の数々とそれによって生ずる心理的な問題はこれを見てみよう。


#1 小児期「ADHDの正しい理解のために」 - YouTube


問題行動を「わざと」と捉えられれば(実際そのように見えたりもするのだが)、教師も親も叱ってばかり、一度叱っても繰り返すのでますます叱られる。それだけでなく、周囲は詰めたい視線を向け、本人は自分はダメな奴と落ち込み、いじけてしまい、また繰り返す…という悪循環にはまる。


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そんなわけでADHDの子供たちは、心に傷を負っている…のだが、基本的には脳天気に見える子供も多く、どちらかと言えば周囲は「うるさいやつ」「忘れ物ばかりするやつ」といったマイナス評価だけをしがちで、本人の心の傷に気づくことはしばしば困難だ。


とりわけ「劣等感の醸成」は本当に厄介で、何をやっても人に評価されない、疎まれるという感情は後々の弊害を強くする。

  何をやっても失敗する

そんな感情が強くなれば、その子は萎縮し、ちょっとわからないことを人に聞けば解決するのそれができず、学習が中途で終わるため、持っていたはずの能力が開花しない。
のみならず、

  どうせ俺(私)は嫌われる

という被害感情が強まれば、人を信用しない(できない)人格形成がなされ、やがては本当に嫌われる人間になりかねない。


どうすれば、というヒントはこの前紹介した前頭前野の成長曲線にあると考える。
http://neurophys11.hatenablog.com/entry/2016/01/16/091632

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ADHD児の脳は発達が定型発達児に遅れるが、後に追いついていく*1という図だが、四角で囲った期間(矢印)即ち8歳〜12歳前後の間に様々な意味での学習の遅れを取り戻すことができるのでは、と。その時期までにADHD児の特性からくる困難に、本人はもちろん親や教師が諦めていないことが大事なのだろう。
特に親はやはり一緒にいる時間が長いだけに、生活の様々な場面でADHD児の特性を踏まえた対応が必要で、それに関してはまた次の機会に。

*1:以前紹介したとおりこれは米NIHの研究者Shawらの研究による。その後も幾つかのこれを支持する報告があったり、日本の研究者中尾らによる大脳基底核の発達の遅れとその後のキャッチアップなどの報告もある(http://ajp.psychiatryonline.org/doi/abs/10.1176/appi.ajp.2011.11020281)。臨床的に考えれば、ADHD児に発達の遅れが後に追いつくのはとても大きな希望である。そして養育/教育側にその意識があれば、幼少期の注意欠陥・多動といった特性に対しては寛容になれるのではと思う。教育の入っていく時期が定型児より遅れるのだ(から、ガミガミ言うだけでは意味が無い)。

辛さは知ってほしいが負けるわけにもいかない(2)

「化学物質過敏を治療したい/治療して欲しい」


dneuro自身化学物質過敏のためやはり自分の化学物質過敏(
以下MCSとする: Multiple Chemical Sensitivity)を治したいと切に願っている。
でも、正直言ってMCSは治すものではない。多分一度発症したMCSはそうそうは治らない。現代社会に生きる身としてMCSだからといって化学物質は全て避けるべきものではないし、MCSだからと言って何も出来ない状態に陥るべきではない。私なりに心がけていること、わかってきたことを書きたい。


1. 残念ながらこれを飲めば症状消失!みたいな薬は存在しない。


エビデンスのしっかりした治療薬が存在しないことは確かだ。いわゆる解毒薬としてビタミンCやタチオンなど処方が考えられるが、効果を期待しすぎてはいけない。間接的に、対症療法的に症状を和らげるという意味では鎮痛剤、抗不安薬、抗てんかん薬、自律神経調整薬(敢えて言えばβブロッカー)が役立つことはある。自分の感覚からすると一部は片頭痛に似たメカニズムが働いているかなと感じるが、正しいかははっきりわからない。MCSは2次障害的に抑うつや不安を誘発するので、その場合抗うつ薬抗不安薬は役に立つだろう。


2. 症状を誘発する化学物質への暴露はできるだけ避けるべきだ。


MCSであれば症状を誘引する化学物質を避けさえすれば症状が緩和されるはずで、それが診断の決め手の1つにもなる。MCS者は非常な低濃度で症状が誘発されるが、「代謝の遅れ」*1が原因でなければ、多くの場合その場から離れるだけで症状が劇的に改善される。とはいえ、一旦誘発されるとそれまでに平気だった物質にも反応するようになっていそうで、厄介だ。


3. でも化学物質溢れる現代社会を否定しては生きていけないし、そうすべきではない。


時々、全ての化学物質を批判したり、逃げようとする方の言葉が目立つ。でも、現実的に全ての化学物質暴露を防ぐことは不可能で非現実的だし、あなたは世捨て人になりたいわけじゃないだろう。それに安全な化学物質のほうが遥かに多いのだ。


4. だからMCS症状の誘発物質はできるだけ特定したい。


何が症状を誘発するのかの予測なしに、暴露を避けることも難しい。だから1つ1つ同定していくことはそれが可能であれば望ましい。単に物質というだけでなく、環境であったり(化粧した女性が集まるPTA集会などは危険筆頭だ…)、家具や文房具、写真集などの既成品全体を避ける必要があることも。結局その環境下の揮発性化学物質総量が問題になったりもする。


5. MCSの症状でとりわけ辛いのは、だるさ、疲労感、集中力低下、眠気であり、生産性を著しく低下させる。


 肩痛や眼痛・頭痛・関節痛などが辛いのは辛いのだが、それらがある意味我慢さえすればなんとかなるものであるのに対し、集中力低下や眠気はとりわけ仕事を不可能にし、ああもう寝てしまおうと睡眠に誘う魅惑的な症状だ(なんて、表現はできない辛さがあるのだが…)。
 この眠気に負けてはいけない。ひどい時にはなかなか気づけないものだが、その眠気は症状なのだ。だからその場から離れ、新鮮な空気を吸いに行こう。


6. 運動や汗をかくことは症状の緩和に役立つ


 参考⇛[化学物質過敏症] 完治した人・大幅に改善した人たちのとった方法
    (http://matome.naver.jp/odai/2137033352070229901)


 このことについて強力なエビデンスがあるわけではないと思う。しかし、MCSと共存しながら生きていくために体力は必要である。体力は症状に負けない予備力を身体に備えさせ、そして恐らく運動により体脂肪が減少すれば化学物質の脂肪への蓄積を少なく出来るだろう。運動そのものに抗うつ効果や抗不安効果もある。発汗した汗中化学物質量の信頼できるデータが存在するか分からないが、私の感覚として汗をかくような辛い料理を食べると何となく症状が和らぐ気はする*2



7. 周囲には、特に家族や職場の人にはとりあえず知っておいてもらおう


 MCSは定義上多くの人にとって何も反応を起こさない低濃度の化学物質に反応する。つまり、圧倒的多数の人があなたの症状を理解しない(できない)。なので、きちんと状況を説明した上で周囲には理解してもらったほうが良い。でないと、内科的に何の検査異常も示さない以上、メンタルの問題としか捉えてもらえない可能性は常にある。単なる怠け者にならないためには理解を得よう。特異体質の人間とみなされることを楽しもう。ただし、最初は優しい周囲もいつまでもぐたっとしていると次第に冷たくもなるだろうから、暴露回避策や自分なりの対処法は不可欠。残念ながら場合によっては転居・転職を余儀なくされることもあるだろう。


どう考えてもMCS発症は理不尽である。生活に制限が生ずるだけでなく、周囲の理解も得にくい。それにたとえ原因がわかったところで企業やその環境の責任者を訴えても、国の基準どおりに化学物質濃度を抑えていると言われるオチできっと負ける。だから個人としてのMCS対策は1つ。回避的になりすぎることなく、どうすれば生活ができるのか、前向きに出来ることに取り組んでいくべきだ。


化学物質過敏は辛い、非常に辛いが、負けてはいけない。

*1:人体に入った化学物質は肝臓や腎臓で酵素により「代謝」を受けることで解毒化され、体外に排出される。例えばアルコールは肝臓において主にADH、ALDHといった酵素を経て解毒されるが、それらの活性程度によって下戸が生ずる。MCSの症状発現においてはこの「代謝」の遅れでは説明できない症状が多い印象ではある。下戸の人がアルコールを摂取すると症状が極めて長く続くが、MCSの場合その場を離れればすぐに症状が消失することがあり、それは代謝っぽくない(とっても感覚的感想だが…)。

*2:汗をかく、自律神経を動かす、という意味以外に、辛い食べ物はもしかしたら脳内神経伝達物質(ドパミンやノルアドレリン)を直接分泌させる可能性もありそうだ。

辛さは知ってほしいが負けるわけにもいかない(1)

化学物質過敏症(http://bit.ly/20zH61g)について何回かに分けて書きたいと思う。Chemical Sensitivity (CS)とか、多種化学物質過敏状態(Multiple Chemical Sensitivity :MCS)と略される。このblog書いているdneuro自身もMCS持ちなので(涙)、私の体験も交えつつ。


元々私は化学物質には弱かった。

例えば、ホルマリン(http://ja.wikipedia.org/wiki/ホルマリン)。ホルマリンはホルムアルデヒドの水溶液。


大体医学部というのは2−3年生くらいに、解剖学実習がある。
その実習に使われるご遺体はホルマリンを用いて保存処理がなされているのだが、何せ実習中は辛かった(昔は高濃度だったが今は環境基準値以下に抑えているらしい)。とりわけ、脳標本を中心に見る中枢解剖の授業では、標本のホルマリン濃度が高いようで、毎日頭痛との戦い。


ホルマリンに接した時の私は、頭全体にベールが掛かって何やら窮屈な中に包まれたような感覚(⇛わけわからないと言われる…)とともに、頭痛と、嘔気、身体のだるさに抗えない存在と化す。大体暴露されてから10分ほどでそのようになる前兆が出始め、曝露量にも依るが、3時間くらいは続く。


仕事時間中にたまたまホルマリンに接したりする(注:医学部である)とまさに悲惨。
自室でくた~っと使いものにならない状態で半日が過ぎてしまう。
同じように接した院生に聞いても、「ちょっと変な感じがしましたけど、大丈夫ですねえ」と。


まぁ私はアルコールにも激烈に弱いので、アルデヒド代謝が他の人に比べて圧倒的に遅いのだろう*1


さてさて、化学物質過敏であるが、すごく大雑把に実感を交えて言うと、
 発症者以外には何の自覚症状ももたらさないような極微量(極低濃度)の化学物質への暴露が一連の特徴的な症状が惹起する病的状態
といったところだ。


症状は厚労省パンフレットから、これである。

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どうだろう。主症状見て欲しいのだが、正直他の疾患、特にウイルス感染症などでも似たような症状を呈する。なので、実を言うと化学物質過敏症の症状というのは非特異的という、診断する側にとっては厄介な特徴がある。
なので、こういった症状が呈されるのと同時に、症状発現の時間軸的に化学物質暴露が明らかであるといった状況証拠が重要である。どのように診断されるかをまた次に考えよう。

*1:これに関しては今度実験をする予定。ホルムアルデヒドが一定濃度充満している個室に、化学物質過敏者でない者と私とが入り、入室後の血中ホルムアルデヒド濃度を追っていく…というのを考えている。ただ、実はホルムアルデヒドは人体内で急速な代謝を受けるため検出されない、と資料にはあるのでやり方考えないといけないか…。我々の測定器具が武器足りうることを祈る。  日本科学物質安全・情報センターによる資料   http://jetoc.or.jp/safe/doc/J50-00-0.pdf 尚、全世界では75,000〜90,000トンのホルムアルデヒドが放出されるらしい。洗剤などにも含まれており、洗濯するたびに我々は環境をホルムアルデヒドで汚染しているのである。

2015年_購入した医学系一般書(3)

悲素

悲素


医学系、というと違うかもしれないが、九州で開業されている精神科医小説家の昨年の新刊は、和歌山の毒カレー事件を題材にした小説だった。


和歌山毒物カレー事件(https://ja.wikipedia.org/wiki/和歌山毒物カレー事件)


夏祭り会場で供されたカレーを食べた人たちが間もなくから激しい嘔吐をし始め、4人が死亡、他に63人が病院に搬送されるという阿鼻叫喚地獄を呈した大事件だ。

小説は、九州大学医学部名誉教授で毒物の専門家である井上尚英先生をモデルとした主人公に、この事件をめぐって警察・検察側証人として決定的な役割を演じたその鑑定を主軸としてかなりノンフィクション性高く当時の状況を描く。

著者いわく、「犯人はもちろん、カレー事件だけを恣意的に裁いた裁判官もバカタレですよ。せっかく井上(尚英)先生たちが毒物を砒素と特定し、その他1件の殺人及び3件の殺人未遂を究明したのに、その地道な努力が報われんかったとですから」と。


【著者に訊け】帚木蓬生 和歌山カレー事件が題材の『悲素』
(http://www.news-postseven.com/archives/20150905_346902.html)


箒木先生、井上先生から鑑定試料一式を渡されて、知られていない事実が多すぎると驚愕したそうだ。林真須美被告の関わったとされるこの毒物カレー事件では彼女と夫のしたであろう保険金詐取事件が殆ど知られていない。死刑判決が状況証拠のみでくだされたと批判されることが多いが、裁判所はカレーを状況証拠で断じるならば、保険金詐取を狙った殺人・殺人未遂に関しても同じく状況証拠から被告以外に犯人は考えられないのだから認定すべきだったのだ。小説に描かれる主人公の心情の通り、井上先生自身、判決に垣間見える事実認定のための発想が歪であり、残念であったのだろう。


しかし、この著作、延々と医学的記述が続く場面もあり、そういったところは飛ばし読みしないとキツイ人多いのでは。ヒ素中毒なんて医者だってほぼ絶対診ないので、勉強にもなった。
身についた知識はこれ。


ヒ素は感覚障害、鉛は運動障害、タリウムは髪の毛がごそっと抜ける。


井上先生と毒物に興味を持った方はこちらをどうぞ。


脳科学は人格を変えられるか?

脳科学は人格を変えられるか?


著者はオックスフォード大学教授。著者紹介によれば認知心理学と神経科学、遺伝子を組み合わせた先端的な研究を行ってきたという。そう、セロトニンという脳内神経伝達物質がある。セロトニンは神経同士の信号として働くが、いわばその信号強度を調整するような働きをするセロトニントランスポーターというタンパク質がある(注:凄い大雑把な説明です)*1。このタンパク質をコードする遺伝子には、長いタイプ(L型)と短いタイプ(S型)があり、S型を持つと不安が強く、悲観的であるという。逆にL型を持てば楽観的でストレスに強い。そんな遺伝子と性格の関係を、あの若年性パーキンソン病の俳優マイケル・J・フォックスが遺伝子L型を持っていることと絡めて論じたりしている。マイケルはとてもポジティブで強いのだ。実験をしてみると彼のようなタイプはネガティブな面に目を向けず、常に物事のポジティブな側面に目を向けるような注意バイアスを備えているという。


ともあれ、脳にはポジティブな心の動きを生む「サニーブレイン(楽観脳)」と「レイニーブレイン(悲観脳)」が同居しており、そのバランスが我々の心の動きを形作り、ひいては私という存在になっている。当然サニーブレインが強く働くことが望ましく、レイニーブレインが強い状態が病的。著者はまさにサニーブレイン的思考が強いのだろう、どうすればそうなれるのか、を様々な研究事例を引き合いに出しながら語っていく。ちなみに両者のバランスは3対1がいいのだという。調査によれば1ヶ月間のポジティブな感情/ネガティブな感情は幸福と感じる人が3.3であり、幸福でない人は2.2だったという。


自信たっぷりな口調を読んでいると、そうかやはり楽観は大事だなとまあ単純なことに気付かされるものの、タイトルの「人格を変える」は大げさな印象。どっちかといえば、人格を決める脳のメカニズムがこれくらいわかってきたのだ、という内容だ。語り口が軽い一方で、研究内容もわかりやすくかつそこそこ詳しいから、この手の心理系書籍としてはお得だと思う。



思えば我々は、人格というのは固定されたもので、変えられない、という言葉に納得しがち。境界性パーソナリティ障害は、ちょい前まで「人格障害」と直訳されたのでなかなか刺激的な病名だが、「あなたは人格障害だから治らないよ」なんて平気で言う精神科医もいた。今から考えるとひどい話。


もちろん、人格は容易に変わるものではない。確かにベースとして遺伝因子を背景に一定の固定された「性質」はあるだろう。でもあなたの「性格」は、あなたを取り巻く環境や経験に裏打ちされており、環境を変え、身についた習慣から逃れられれば変えられる部分は実は少なくない。
性格と信じているもの、それは単に経験から身についた技術、である可能性があるのだ。



2年連続一歩手前で負けてプロ囲碁棋士になりきれない伊角青年は自らを内気で人の言動に惑わされやすく、感情コントロールが下手くそと考えている。そんな彼に中国のプロ棋士が言う「つきまとう感情に振り回されないようにする、それには…元々の性格なんて関係ない。修得できる技術だ」


特別脳科学なんて考えずとも、性格が訓練で変わり得るって考えるほうが人生にとって有意義なはず。診察室ではそう話すことにしている。

*1:著書の中ではセロトニン運搬遺伝子と訳されているが、ちょっと誤解を招く。別にセロトニンを運搬するタクシーのような分子の遺伝子じゃない。一時S型はどう、L型はどう、みたいな研究が流行って、私の出身医局でも研究していた時期があるが、これ1つじゃ決まらんよ、というのが正直な感想。話としてはわかりやすいけど。

ASDを理解するために(2)

ASDは注意欠陥多動性障害(ADHD)を合併したり、逆にADHDに合併したり、ということが多いとされている。


同じ発達障害じゃないの?という疑問を呈される方もいようが、1994年発表のアメリカ精神医学会の診断基準、DSM-IVでは合併は無い、とされていた。それが約20年を経て発表されたDSM-Vにおいては合併診断可能となっているから、精神科医も経験を積んだのだ。

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昭和大学精神科教授である岩波明氏のADHDに関する講演を聞く機会があったので、私が普段抱く臨床的印象とともに雑感を。

書いたとおり、ADHDとASDは合併がある、多い。
診断基準を見ると、ADHDの持つ特徴即ち多動・衝動性・注意欠陥と、ASDのコミュニケーション能力の障害とはかなり違いがあるように見えながら、日常生活におけるトラブルでは少なくても表面上似ていることが多い。


岩波先生のスライドから引いてみれば、
  1) 毎回し忘れる、目にして気づかない
  2) 話しだすと止まらない、話が飛ぶ
  3) 順番、会話に割り込む
  4) 馴れ馴れしい
  5) 懲りない
 といったところだ。


でも、例えば同じ「話しだすと止まらない」で考えてみると両者はやはり違う。


ADHDはそれこそ好きなことを語りたくて語りたくてしょうがない、その熱意を、聞いているあなたに伝えたい、という「相手に伝わって欲しい」「わかって欲しい」という共感を求める姿勢が感じられることが多い。


一方、ASDの場合は、確かに好きなことを語りたい点は同じだが、「自分はこれをしゃべりたい」が顕著で相手の共感を求めずにしゃべり続けることが多い。


ADHDの子供も、ASDの子供も列に並べないが、ADHD児がじっとしていられなくて動きまわるのに対して、ASD児は関心がないという様子でふらふらっとその場から立ち去る。


もちろんどちらとも言えない子もいるが、そのような違いがあるので両者の日常トラブルは表面上類似していても本質が異なるという印象はある。


ADHDならば、アトモキセチン(商品名:ストラテラ)や、メチルフェニデート(商品名:コンサータ)といった薬がその衝動性や注意欠陥によく効くのに対して、ASDのADHD様行動には同じようには効かないという印象だ。


とはいえ岩波先生曰く効くこともあるから試して無意味というわけではない。


***


さて、実を言うとADHD者は問題として顕在化するとはいえ、社会的成功者の中に結構いる。歴史上燦然と輝く偉人たちの中でもモーツアルトエジソンアインシュタインなど枚挙にいとまがないし、戦国武将の織田信長、幕末の坂本龍馬などもきっとそう。


実際ADHDの人は落ち着きには欠けるものの、屈託がなく、社交性に富み、発想力豊かで、一緒にいて楽しい人がかなりいるから成功する要素を持っているのだ。


そんな成功したADHDと、残念ながら不適応になってしまっているADHDの間には一体どんな差があるのか?


岩波先生は、現在の社会構造、特に町中の自営業として成功することが昔のように容易でなく、サービス業主体となった現代で生きづらくなった、顕在化しやすくなったのでは?と述べていたが、確かに1つの要因と思う。忘れっぽくてぽかが多い人はサービス業には向かないだろう。研究者ならいいけど。


ただ、私がいつも思いだすのはこの図。


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NIHの研究者が発表した論文(Shawら、2007)からだが、ADHDの大脳皮質の厚さ(左は全脳、右は前頭葉のみ)は定型発達児に比べて薄いが、8歳から12歳辺りで急速に厚く、追いついていくという図だ。

動画で見るとこんな感じ。


www.youtube.com


右側の定型発達脳が10歳になる頃には発達してくる頃(色が濃くなっていく)。その頃まだADHD脳は完成には遠く、遅れて追いついていく。


そう、ADHD児の脳はこのような形で、発達が遅れた後に急速に追いついていく、そんな発達を遂げるらしい。


実際、この図をある小学校の校長先生に見せたところ、「あ、だから卒業する頃にすごく落ち着く子たちがいるんですね!」と。


成功したADHD者は、もしかしたらその大事な時期(8歳から12歳くらい?)に適切な対応、良い刺激を受けられることで、社会性が定型発達児に追いついていく基礎が出来た人たちかもしれない、と思う。


***


最後に岩波先生の著作を2冊紹介。
ADHDなら、

大人のADHD: もっとも身近な発達障害 (ちくま新書)

大人のADHD: もっとも身近な発達障害 (ちくま新書)


もう1冊はいささか怖い形で精神科の病気を紹介していくこれ。

心に狂いが生じるとき―精神科医の症例報告 (新潮文庫)

心に狂いが生じるとき―精神科医の症例報告 (新潮文庫)

2015年_購入した医学系一般書(2)


何かと話題になりやすい近藤誠医師の著作。慶応大学医学部放射線科の元講師で現在はセカンド・オピニオン専門の外来を自身の研究所でやっているらしい。
近藤誠がん研究所・セカンドオピニオン外来


さて、近藤誠氏といえば「ガンもどき」理論。
超話題になった処女作Amazon.co.jp: 患者よ、がんと闘うな (文春文庫): 近藤 誠: 本から氏の著作に触れていた私なりに要約すると…


がん組織をいくら見ても本当に悪性か、それとも放っておいていい「ガンもどき」かはわからない。そんな組織像を含めた病理的診断から症状も出ていないのに治療を急ぐな。実際に症状が出てから治療をした方が合理的、下手に手術や抗がん剤を使った治療に急いだばかりに悲惨な目に遭うばかりか却って命を縮めた患者は枚挙に暇がない


著作を読んでいると、つい納得しがち。おおっと膝打つ人多いだろう。
がんと診断されるのは怖いし、「放っておく」のは実に魅力的な主張。
猛烈な批判にさらされる氏の理論も、もっと穏やかに主張すれば、限定的には納得できるところもあったりする。


ただやはり闇雲に放置、というわけにはいかない。胸のしこりを「恥ずかしいから」と全く医者にかからなかったおばあちゃんがいた。結局は癌が進行し、腐敗した胸から悪臭が漂っていた姿を学生時代実習先の病院で見たが、忘れられない悲惨な光景であった。


近藤氏は抗がん剤全否定的だが、全く効かないものではないし、一部のがんでは現在本当にクリティカルに治療上重要で、効果的である。一方で、抗がん剤を使うにあたり、目標を研究上のエンドポイント(目標)である延命におくと、辛いことも起こりうるのは確かに近藤氏のいう通りだろう。そうではなくて、生活の質を上げるために使うべきなのだ、と思う。効果があり、耐えられる程度の副作用であれば通常の使用法を守った上でしっかり使うべきだし、耐えられない副作用に耐えてまで使って生活できなくなれば、それは本末転倒だ。バランス感覚を大事にしたい。


ところで、がん、に対する主張以外の本書で語られる健康法は正しいことも沢山あるとは思う。過剰な健康法を避け、好きなことをしながら、好物を食べながら、規則正しい生活で健康を保とうというコンセプトはそのとおりだろう。
「免疫の力ではがんを防げない」「コラーゲンで肌はぷるぷるしない」なんてのも正しい。


結局のところ、近藤氏の主張はバランスが悪いのだと思う。。
あまりにエキセントリックな主張にしたのは、対立を煽った文藝春秋社や一部の妄信的シンパの責任が大きいのだろうなとも…。


疲れたので今日は1冊だけ。