きっとあなたも信じている医学神話
医療とその技術はすべてエビデンスに支えられているべき
エビデンスとは読んで字のごとく証拠ないしは根拠であり、医療技術はその1つ1つに根拠があるべきだといいたい。何を当たり前な、と感じる人は現代に生きる若者だからであり、エビデンスに基づいた医療(Evidence Based Medicine; EBM)は1990年代になってようやく根付き始めた概念。
根拠に基づく医療(Wiki)
目の前の患者さんの症状に対し、最新最善の科学研究から得られたエビデンスを治療選択の意思決定に使おう、という至極真っ当な話。
どのような治療が理にかなっているのか、それを個人の勘や、定説的な思い込み、好みによって左右されてはいけないということだ。*1
やっぱそれが当たり前でしょ?と思っていただきたいのだが、医療の世界にはしばしば思い込みがあって、それはプロたる医師も同様だったりする。
今日はプロも信じやすいそういった「医学神話」について。
7つの医学神話というのが2007年にBritish Medical Journal(BMJ)に載って反響を呼んだそう(伝聞の理由は後で明かします)。
今でもあちこちで紹介されたりするもののネット上日本語解説も無さそうなので。*2
1.1日に少なくてもコップ8杯分の水は飲むべきだ
アメリカで昔こういったことが言われたのかな。人は2.5lの水分を必要とし、食事から1lの水を摂るから、残りを(コップの容量にもよるだろうが)6-8杯くらいの水分で補えと。
しかし、通常は日常の中でミルクやコーヒーなどの形で摂る量で十分と言えよう。
ちなみに水のとり過ぎは水中毒、低ナトリウム血症を引き起こし時に死に至るということで、論文では注意されている。精神科の病棟では統合失調症の方が水を飲みすぎてしまって水中毒を起こすことが見られるが、それ以外にもダイエット目的に大量の水分補給ということもあり得るか。
ただ今の暑い日本の夏を考えると、脱水も注意しなくてはいけないし、注意喚起の仕方も難しいな…。
2. 脳は10%くらいしか使っていない
これは昔からある神話で、アインシュタインがそう言ったという説もあるようだが、1907年に端を発しているらしい。
実際には脳の機能は大変に細分化されており、どの場所をとっても違う機能を担っているために、「働いていない90%」を見つけることは不可能。機能的MRI(fMRI)など脳機能を時間差無く見ることができる装置で覗いてみると、脳は1つの課題をこなすのにも沢山の場所を働かせている。図は、画像通りに手を動かして、という課題で賦活される脳領域をfMRIで見たもの。色の濃いところは全て賦活されているので(下のカラーは一部を強調しているだけ)、単純な課題でいかに脳の殆どの部位が働いていることがわかる。
それに脳は人間の体重の約2%の重量しか無いが、人体が利用する糖の20%も消費する。もし10%しか使っていなければこんなに効率が悪い組織は無いだろう。
3.死んだ後でも髪の毛や爪は伸び続ける
これ、怪談になっているが、錯覚。
法医学者によれば、爪や髪の毛の周囲組織(指とか頭皮)が乾燥し縮んでいくことで、あたかも伸びていくかのように見えるとのこと。
爪が伸びるのであれば白い部分が長くなるはず。そういった計測がされていないのでは(見つけられず)。
ネットを散見すると、心臓が止まったからといって身体の全組織が同時に死ぬわけではないからありそう、という人もいるが、違います。
実際には髪も爪も血中のホルモンを含めた多数の因子による複雑な調節を経て伸びているので、死んでまで生きているときのように伸びたりしないのだ。
4.毛を一旦刈ると、伸びが早くなり、濃くなり、巻いてくる
これは確かだ、という声が聞こえそう。しかしBMJの記事によればしっかりした科学的根拠で否定されているようだ。1928年には早くも髪の毛が刈った後で濃くなったりしないことを確認しており、その後繰り返して証明されている。
毛を刈ると、刈った部分が滑らかでないことや、陽や化学薬品にさられていないことで濃く見えてしまうとのこと。
考えてみれば、毛剃が伸びを早くするならハゲの人の解決ができるはずですよね。
5.薄暗い中で本を読むと目が悪くなる
え、そうでしょ?と言いたいが、実際には薄暗さそのものは視力を悪化させない。とはいえ、十分な明るさが無いと目を疲れさせるからそう思えるのだろう。でも目が疲れやすいシェーグレン症候群の人でさえ、休めば回復する。
ただ、ある総説論文によれば薄暗い中で本を読み、目に近づけて本を持っていることは視力発達に悪影響があるだろうと。
論文を離れるが、実際に視力悪化=近視を起こさせるのは距離、と遺伝だろう。薄暗い中で物を見ることが視力悪化の原因になるのなら、電気の無い社会ではそういう機会が多いから視力が悪くなりそうだが、そうじゃないでしょ。
とはいえ、薄暗い中で本を読むときには必然的に距離近くなるからね。まあ寒いと風邪を引く、みたいな相関かなと思ったりする。*3
6.七面鳥を食べると眠くなる
七面鳥?まあ日本人に馴染みが無いのは置いといて、肉に多く含まれるアミノ酸、トリプトファンが睡眠を誘発させるということらしい。
トリプトファンがメラトニンという睡眠調整ホルモンの原料となっているから…という発想。さらに神経伝達物質セロトニンの原料にもなり、セロトニンは幸福感をもたらすという記述も。*4
探してみるとサプリもあり、トリプトファンでしっかり寝れるし、セロトニン増やして気分もよくしようみたいな宣伝サイトが数多い。
このトリプトファン、アミノ酸である。必須アミノ酸と言って人体を構成する様々なタンパク質を維持するために食物から取らないといけない。トリプトファンは確かにメラトニンやセロトニンを作るのに必要。だが、実はそれ以外の様々なタンパク質にも原料として使われており、体内に入ったトリプトファンの使いみちはメラトニンやセロトニン合成だけではない。さらに、Wikipediaにも書いてあるがトリプトファン摂取によって首尾よくセロトニン合成に使われたとして、セロトニンが過剰に増えてしまうとセロトニン症候群のような重大な副作用も懸念されるので、取れば取るほど良いというわけではない。
ちなみにトリプトファンサプリの1錠は500mgあたりが相場の様子。トリプトファン含有量は例えば卵1個(60gとして)におよそ100mg程度あるらしい。肉類、豆類には豊富だし、ご飯にもそれなりに含まれることを考えると、普通に食事をすれば十分量摂れることが考えられる。
睡眠に対する二重盲検スタディが無いかと調べてみると、2016年の中国の研究が新しそう。確かに若干の改善がありそうだが、古い研究では心理的効果が大きいと結論づけているものもあり、少なくても効果が大きいことは無さそうに思える。*5
まあそんなに効果がしっかり出るなら医者が使うし、第一危険でしょう?
7.病院で携帯電話を使うと深刻な電波障害を起こす
これは今では大体使えるようになったし、ちょっと古い神話、というか注意事項になったかな。
アメリカの有名病院メイヨークリニックで2005年に510ものテストがされた。16の医療機器に6個の携帯電話。医療的な問題な障害は1.2%に過ぎなかった。でもあったんだ、と思うが、1メーターも離れれば障害は起きない。さらに今ではほとんど障害は無いだろう。
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さて、今日紹介した7つの神話はこの本から知ったもの。内容まるで関係ないと思われそうだが、エビデンスに基づいた犯罪対策を、という文脈で紹介されている。
その上で効果的な犯罪対策、刑罰のありかたを解説しているが、犯罪予防の観点からは犯罪者を罰するよりも治療する必要があるという。
薬物犯罪や性犯罪において特に治療の効果は高いのだが、どちらも嗜癖の問題として治療という観点を考えたことの無い人が殆どではないか。
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神話が生きている分野の1つは教育界、とうか教育に関する考えだろう。
氏と育ち、という点でとかく「育ち」=「環境」が強調されがちだが、実際に最も影響が大きいのは「氏」=「遺伝の効果」。
だからといって環境が悪くてもいいというわけではないのだが、育ちを重視しすぎると、上手く育たなかったのは親のせい、となる。
とかく「心理」や「教育」の専門家は子どもの行動にもっともらしい理由をつけがちだが、その多くが間違っているのは本書を読めばわかる。20年前に書かれたこの本の状況が今読んでも新鮮に感じるのは残念。
*1:名医の直感がもてはやされることもあるが、その直感の背景には莫大なエビデンスの知識があるものだ。目の前の状態にエビデンスをどのように調整して当てはめるかが名医の条件と言えよう。
*2:BMJはイギリスの権威ある医学雑誌。論文評価に使われるインパクトファクターは2015年で19.967。これは相当高い数字でこれに自分の論文が載れば出世が約束される(かも)。毎年クリスマス前にはジョーク論文が載る(⇛Wiki)。例えばアイスクリームと頭痛の関係、など。
*3:寒いのは風邪の直接の原因にならない。風邪の原因はウイルスであり、ウイルス無くして風邪は引かない。乾燥が喉の細胞を傷めたり、寒さ自体も免疫系を弱める。そして人口密度が高ければ他人の風邪ウイルスい曝されやすい。そういった付帯条件が風邪ウイルスに感染させやすい条件を冬に作っている。
*4:セロトニンを増やす(正確にはセロトニンの機能を増強する)薬剤がいわゆる抗うつ薬。抗うつ薬を批判する方はトリプトファン摂取も批判していいのではと思うんだが…。
*5:薬の試験はほぼ必ず、実薬(例えばトリプトファン)と偽薬(例えば乳糖などの薬理効果を持たないプラセボ)が用いて、効果を比較する。二重盲検スタディでは、投与する医者側も、投与される被験者(患者)側もどちらを投与されたかわからない。実薬と偽薬は味や形が同じくなるように作られる。