遺伝子情報、知りすぎてどうする
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- 発売日: 2017/04/25
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今月の日経サイエンス「新生児ゲノム検査の期待と不安」から。
2010年テキサス州、キャメロンと名付けられた赤ちゃんは新生児ゲノム検査のスクリーニング検査を受けて遺伝疾患には罹っていないはずだったが、7ヶ月経って発症した肺炎を契機にけいれんと呼吸不全を起こし、あれよとあれよと病状は悪化、髄膜炎や結核などを疑った挙句にたどり着いた診断は重症複合型免疫不全症という遺伝性疾患だった。生まれつき免疫に関わるタンパク質(免疫グロブリン)の合成に問題が生じ、様々な感染症にかかってしまう。結局キャメロンちゃんは9ヶ月で死去。
家族はその後当局に出生時にこの疾患を発症する可能性が無いかをスクリーニング検査項目に入れるよう働きかけ、現在では入れられているようだ。
ちなみに日本では入れられておらず、全員に行うのはアメリカと台湾の様子。およそ5万人に1人の出生であり、日本では年間200人くらいが生まれるという。*1
さて、記事では進歩した技術をもとに、遺伝情報を求め利用することは今後進むことが不可避であろうことを前提に論を進めている。疾患の遺伝情報を予め知ることは、治療できる病気である場合には非常に有用だ。遺伝子を用いるわけではないが、今日本で生まれた子どもは必ず採血され、フェニルケトン尿症やガラクトース血症などをアミノ酸の微量分析などの手法を用いて19疾患を対象にスクリーニング検査をされている。これにより、特定の代謝異常症を発見でき、病気の発症を未然に予知できる。遺伝子で疾患情報が得られるのならより網羅的に多くの疾患を未然に発見できる可能性が高まるだろう。だが、問題は対処法もわからない病気や、影響がよくわからない「意味不明の変異」が見つかった場合で、親はとても気をもんでしまう結果になるだろう。
アメリカではハーバードの研究者を主導にBabySeqプロジェクトというのが進行中で、健常児と疾患を抱えた子どものゲノム(遺伝子全体)を解析している。
新生児の遺伝子スクリーニングがもたらす親の苦悩www.genomes2people.org
で、こういう検査には「偽陽性」がつきもので、本当は病気になるリスクが高いとは言えないのに、高いと判定されてしまうことがある。また、現時点ではリスクが確実とはいえない(例えばこの遺伝子変異を持っていると、無い人に比べて50%ほど発症リスクが高まる)情報も出てくる。
遺伝的情報が親に与える影響を3つ指摘する論文がある(Frankelら、2016年、Pediatrics誌)。3つとは、我が子を脆弱(虚弱)と考えてしまうこと、親と子どもの結びつき、そして配偶者を責めてしまうこと。
子どもが弱いとか将来病気になってしまう、と考えると、たとえ子どもが実際には病気を発症していなくても子どもへの接し方は変わってしまうだろう。必要以上の対策を考えてしまうのは確実だ。いつ発症するのだろうと不安を感じる親のストレスは勿論計り知れない。
ある報告に拠れば、偽陽性の報告を受けてしまうと(親は陽性=発症リスクが高いという情報を得ていることか?はっきりわからないのだが)、親子関係が上手く機能しないことが多くなる。
そして、子どもを抱えた夫婦にとっては、自分を責め、互いに相手を責め合うことにつながる。疾患につながる遺伝子は必ず夫か妻か、どちらからかが持っていたものなのだ。例えば、X染色体上にある疾患遺伝子を男の子が持っていた場合を考えてみる。男の子の性染色体はXYの組み合わせで、Yは父親由来になるので、X染色体上の疾患遺伝子は必ず母親から。母親は自分を責める傾向が強く、父親は配偶者を責める傾向が強いという(男ってのは大抵身勝手なものだ)。
遺伝子解析をしてもなあ...
遺伝子情報は、それが確実に治しうる明らかな情報をもたらさない限り、知るのはストレスがたまるだけ、ということがありそうだ。
こういう思考実験をしてみる。
ある疾患の発症に影響を与える遺伝子geneXがあるとしよう。geneXの遺伝子変異があると、その変異が無い人に比べて発症リスクが50%も高まるという。さらにgeneYの遺伝子変異がそれに加わると発症リスクは4倍に高まる。果たして、あなたの遺伝子情報を解析したら、geneXとgeneY両方とも遺伝子変異があった...。
どうですかね、不安になるかな。大分話を単純化してみるけれども...その疾患の有病率にもよる。たとえば1%なら100人に1人かかる。geneXの変異が50%発症リスクを高めるなら、リスクは1%から1.5%になる。geneYでも4%だ。言い方を代えれば、たとえ両方の遺伝子変異が重なっていても、96%は大丈夫。なんて考えるのは、実際には個別的に様々な要素が関わるので単純化しすぎだが、それでも余り怖く思う必要が無いと感じる。とはいえ絶対に死んでしまう病気であれば不安は少しつきまとうか...。*2
有病率10%の頻度の高い疾患だったら、geneXの変異で発症リスクは15%に高まり、geneYの変異まであったら40%に発症リスクが高まる。これなら対策を立てる意義がありそうだ。
ということで、遺伝子変異がどれほどのインパクトを持つかは対象とする疾患の有病率と、その変異の与えるリスクへの影響に依る。滅多にない疾患はそもそも有病率が低いから、確実な発症、ではなくリスクを高めるだけなら気にすること自体が精神的健康を保てなくなるだけだ。そして、有病率の高い疾患(精神科なら、うつ病や不安症、身体の病気なら糖尿病や高血圧、高脂血症など)はほとんど確実に多遺伝子疾患であり、1つや2つの遺伝子変異が与える影響は実際には僅かなことがほとんど。多くの遺伝子解析業者が、ごく僅かな遺伝子変異の病気への影響を判定するが、正直意味があるとは思えないことが多い。
民間の遺伝子解析といえば、Googleも出資している23andmeが老舗(ちなみに23andme創始者の1人Anne Wojcickiの夫はGoogle創業者のセルゲイ・ブリン)。なんとたった149ドルで自分の遺伝子を解析し、様々な疾患についてのリスクを高めるような遺伝子変異の検出とそのリスク、人種的ルーツや個人の性質(耳垢、目/髪の色、ハゲるリスク、アルコールを飲めるかなど)を報告してくれる。遺伝子変異の中で、DNA配列の特定の1つの文字(文字というのは比喩だ。念のため)が他の文字に置換されたり、失ったりするのを一塩基多型(SNP)というが、それを検出する。 現在様々な研究の蓄積によって、例えば2型糖尿病はこのSNPを持つとリスクがどれくらい上がるなんてのが(一応は)わかっているので、あなたにそのSNPがあるならば糖尿病に気をつけた生活をしてね、ということになるのだ。
さすがGoogleさんというべきか、それぞれの遺伝子変異のもたらすリスクについての報告は非常に詳しいし(残念ながら英語だが、こんな感じ)、その根拠となる文献情報も定期的に更新されるようだ。ここらへんの解析の確かさとコストの安さは正直日本の業者は太刀打ちできないと思うので、dneuroが個人的にやるとしても選ぶのは23andmeにしたい...と思ったら今は国内業者も29800円が相場らしいから以前に比べたら大分安くなったかな。*3
で、こういう解析を選ぶかなあと言えば、結果も業者によって大分違うこともあって、余り信用はおけないのだ。実際のところ、個々のSNPが根拠とする研究成果にばらつきが非常に大きい。
遺伝子検査を比較!GeneLifeやMYCODEなどで結果に違いあり
dneuro的には、遺伝的リスクを過剰に心配するよりも、一般的に発症に影響するリスク要因(喫煙、アルコール、塩分摂取とか、体重、運動などなど)を下げる生活を心がけることが重要だろうと確信する。遺伝的リスクを考えるなら、誰か近い親族に心配する病気の人がいるときに、自分にもリスクはあるんだろうなと考えておけば十分だ。でも情報としては面白い。今、dneuroは自分の遺伝子を自分で解析できる環境にはあるけれど、それは面倒なので、遺伝子占いと思ってやってみることを考えてもいいな...。
さて、Googleさんの狙いはなんだろう。こうした遺伝情報を提供して健康増進に役立てる、というのは表向き。裏の目的は膨大な遺伝情報をストックすることだ。遺伝情報というのは、人種、性格、体格、能力、好み、そして疾患の情報とほとんどあらゆる個人の特性が分かり得るはずのもの。最もパーソナルな、本来は簡単には開示できないような情報だが、現時点ではわからないことだらけ。暗号表のようなものだから個人で活用できないので、人に解析をお願いしているのが現状ということ。本来ならお金を出して情報を欲しいのは23andmeとGoogleのほうであるはず。昨今のビッグデータ解析の進歩に伴って、膨大な遺伝情報から特定の人に効きやすい薬の開発にも活用可能だろう。製薬会社に情報を高く売りつけられるはずだ。今のところ提供者の意に反して情報を使うことはない、と言っているが、研究の進展により各遺伝子情報のもつ意味をより理解できるようになったとき、彼らが運用ルールを今後も変えない保証はない。
- 作者: 石原理
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どんどん進む生殖医療の最前線は当事者でないと実感することができない。以前は受精を体外でやって元の子宮に戻すことが先進技術だったのが、現在では親になるための多様な手段が選択肢として上る可能性がある。精子バンクに代理母なんてのは報道でもよく見るが...どうせ子供を持つなら望みうる資質を、と考えることは当然の権利とみなすべきなのか、それとも問題にすべきことなのか、正直わかりません。
ゲノム編集とは何か 「DNAのメス」クリスパーの衝撃 (講談社現代新書)
- 作者: 小林雅一
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近いうちノーベル賞を獲るであろうゲノム編集技術。遺伝子DNAの配列を直接操り、欲しい機能の遺伝子を導入したり、要らない遺伝子を除いてしまうことが可能だ。Crisper-Cas9法(クリスパー・キャスナイン、と呼ぶ)が開発されて以降、手法の簡便さと確実さが相まって爆発的に技術が普及した。早くもこれを利用して作物の収量を上げようという試みは実用化されている。遺伝子を直接操作するために、神の技術と言われたりもするが、別に神でなくても遺伝子操作は昔から簡単だ。ただその再現性がこの技術で物凄く上がった。これを使えば、望ましくない遺伝子を除いたり、好ましい性質の遺伝子を導入するなど、受精卵で操作してしまうことすら現実になってしまう。生殖医療において今後我々は非常に困惑する事態を考えていかなければいけないのだ。ちなみに個人的にはアルコールを代謝する酵素遺伝子を肝臓に導入したい。方法だけなら考えられるけどなあ...。
*1:米国では、出生児のスクリーニング検査で検出可能な重大な病気の多くが標準的な遺伝子検査の対象項目とされていない、と記事にはあるが、日本だってそうだ。
*2:ここにあげた計算は実際にはもっと複雑に考えなければいけない要素があって、例えば年齢や性によってもgeneXの持つ意味は違うかもしれない。高血圧のリスクを考えた時に、それが意味を持つのは成人になってからであり、たとえgeneX,Yの遺伝子を持っているからといって5歳児にとってと、50歳にとっての重みは明らかに違う。
*3:問題はこの23andme、日本からは発注できないことだ。以前はできたのに...。そしてそのせいで、23andme、つまりはGoogleが持ち得る遺伝子情報に日本人の情報が著しく欠けることになる。一民間企業が利益追求のために集める遺伝子情報、というコトの倫理的是非はともかく、個人的にはGoogleがそれを利用して何を生み出すのかに興味を持ってしまう。その情報の中に日本人のゲノム情報が欠けてしまうのは残念だ。