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発達障害臨床雑感

この1年、自分のいるクリニックでは発達障害の診断や現在抱えている不適応や気分障害・不眠など精神科的症状に悩む人の受診が増えた。国際的な診断ツールである、ADOS-2(本人対象)やADI-R(養育者対象)を用いての出来るだけ客観的な自閉症鑑別の手段を使っていること、そういったツールを使えて発達障害に元々詳しい心理士がいること、地理的に理科系の大学が近辺に複数あることといった条件は重なっている。ただ、実際に数、特に現在の状況に不適合な発達障害者が増えて顕在化しているのだとも思う。


疾患や障害と捉えるのが正しいのか?
 以前も書いた(⇛ASDは治療するものなのか)ように、ASDにしてもADHDにしても、必ずしも「疾患」や「障害」と考える必要はない。それぞれの性質を持ちつつも、能力が環境にマッチして発揮できており、周囲から認められている人に敢えて医学的診断は必要ないだろう。「ちょっと変わり者だけどデキるよね」という存在でいい。そういう意味で、ASDもADHDも必ずしも「治す」べき疾患にかかっているわけではないし、適応している人に対して「障害」という言葉を使うのは間違っている。また、それぞれの特徴はそもそも脳が抱えている特性であって、治療目標は、ある時点で「健常状態」にころっと転換させ得るものでは無く、現在の状況に適応できる条件を整えたり、適応能力を伸ばしていく手伝いをして、社会適応を上げることにあるのだと思う。さらに言えば、その目標に必要なのは、医療の提供では不十分・役不足・期待するのが間違っているという面が強くて、診察室を出た、社会で助けてくれる存在が要るのは明らかだ。大人なら就労支援施設や地域のケアセンターなどのスタッフが大いに助けになるし、子どもには勿論学校の理解と濃厚な支援が必要だ。優しい、信頼できる大人の存在も用意して欲しい(⇛発達の子には優しいお兄さんやお姉さんを家庭教師に)。*1


みなが天才ってことはない
 ASDやADHDに「理解あるつもり」の人にありがちなのは、あたかも彼らが特別な才能に恵まれていると勘違いしていることだ。モデルの栗原類さん、そして彼のTVドキュメンタリーに出てきたピアニスト野田あすかさんなど見ることで漠然とそう感じる人が多くなっても仕方がない。加えて、ちょっと古いけれども、映画「レインマン」でダスティン・ホフマンが演じたサヴァン自閉症の男性が特異的に素晴らしい記憶力を持っていた姿が印象に残っている人もdneuroの世代より上では多い。*2



 でも残念ながら、というか当たり前だがそんな才能に恵まれた人はごく少数であって、普通は特別な能力なんて無いし、むしろ学習障害状態になっている子ども、その結果身につけるべき能力が身についていない大人の発達障害は多い。デキる人であったとしても、あの人はできるからそれでいいんだという状況には無い方が普通。少なくてもクリニックに来る人は、持っている発達障害特性が、そうでない人たちが支配している環境に合わず、障害となっているからこそ来院している。子供時代は、変わっているだけに、「将来何ものかになるのかも」と思ってしまう教師も多い気がするが、そうではなく、しっかりとケアして能力が伸ばせるように、最低限の力がつくようにサポートすることが常に必要である。


量的なADHDと質的なASD
  ADHDは量的問題と感じている。以前報酬系の活性の弱さを書いたように(⇛学習できないのは報酬系の不全が問題)、ADHDの脳内ネットワークは非ADHD者と変わらないながら、必要な神経伝達物質の量が足りない為に問題が特性として出てきている。だから、足りないのを補うという意味で、薬が効きやすいのだとも思う。一方、ASDが質的の意は、脳内ネットワークそのものが非ASD者と違っている部分があり、それが独特の発想やこだわりにつながっているのではないかということ。


自閉症スペクトラム 10人に1人が抱える「生きづらさ」の正体 (SB新書)

自閉症スペクトラム 10人に1人が抱える「生きづらさ」の正体 (SB新書)


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 この本は何度も紹介している。著者で精神科医の本田秀夫氏は、ASDは「特有の発達スタイルを持つ人種」であり、ASDとそうでない人の違いは、みにくいアヒルの子の話をモチーフに「白鳥とアヒルの違いに匹敵するかも」と述べている。本田氏は、外国人と考えればいい、という例えを使うこともあったと思うが、私dneuroは、「いっそネコと考えたらどうか」と話をすることにしている。ASD者の不適合には、周囲が自分たちに何としても合わせないといけないのだという発想から逃れられないことも多い。でも、イヌの群れに1匹ネコがいたからって、そのネコにイヌと同じになれ、というのは酷だし、意味も無いことはわかるでしょう?さらに言えば、ネコにもやっぱり個性があるわけで、あの人はASDだからこうだと決めつけてしまうと、指導・対応に柔軟性が無くなってしまう(指導がASD化してしまっているみたいだ)。結局はASD的な特性があると認めた上で個性を見極めて対応していく必要がある。ちなみにASDをネコと思えという文脈で言えば、ADHDシェパードの群れの中のポメラニアン、といったところかな。俺らの中でやっていくなら変わんなきゃ駄目だぞという感じ。


社会適応を妨げている特性
 ADHDの3主徴(不注意・多動・衝動性)はよく言われるものの、私は以下の4つが社会適応を妨げている特性と感じる。それは、ワーキングメモリーの低さ、覚醒度の低さ、反抗性、報酬系の不全、だ*3。これらの機能面の弱さは主に大脳の前頭葉と、線条体側坐核と言われる神経細胞群の機能の低さに起因すると考えていい。やる気を出しても好ましい行動の習慣化がし辛く、不全感が強まり、劣等感が醸成されやすいのだと思う。
 一方のASD。新しいことへの不安と柔軟性欠如、高いプライド*4、被害者意識を高めやすい、そして感覚過敏。こういった点が、新しいことに挑戦することを妨げ、人のアドバイスを聞けず、挫折に弱く、先に進めずこだわりを捨てられないことにつながっているのではないか。実はASD者にこのような特性があることが、高い能力と攻撃的な性格を持つ場合には、加害者にもなり得ると感じている。こういった性質を、自分がASD(的)であることに気づかない親が持っている場合に、子どもが非常に傷ついていることを経験する。とりわけ子どもがASDの場合、ASD(的)親の加害による傷つきは社会適応を悪くした主因と言っても良いくらいなときがある。この件についてはいずれ項を改めて。


以上、上記は雑感で、のちのち変わる可能性もあるし、私の感覚が絶対的に正しいというわけでもなく、また今日の記述には必ずしもエビデンスがあるわけではないので、注意されたし。

なかなか良いのではと思うこのシリーズ。身近な存在や、ちょっと理解できない部下に発達障害的側面があるのでは、と考えた時に手にとって欲しい。



ASDについての本は大分増えてきて、解説本や、ASDとしての自分を語っている本はテンプル・グランディンなど中心に多数出版されている。一方で、もっと等身大に、ASDと診断されたけどそれが今後の人生において何を意味するのか、診断されたことをどう利用していくかを当事者的目線で語ってくれる著作が日本には足りない気がする。邦訳を望みたい本。近いうち内容も取り上げたい。

*1:家庭教師はいいけど金がかかるし…と思う方、いるだろうが、実際のところ発達障害の養育にはコストがかかると覚悟した方がいい。学校教育が対応に不十分なのだから当然でもあって、単純に医療機関や対応機関に支払うコストだけでなく、費やすべき時間コストも当然大きくなる。アメリカCDCのデータによれば、ASDの子に対する支出はそうでない子に対しての支出に比べて年間で4-6倍、金額にして2,240ドル-3,360ドル、ざっくり言って25万から40万程度は余計にかかるという。

*2:サヴァンは持っている知的能力に見合わないような凄い能力を特定領域に持っていることを言う。例えば、日付から瞬時に曜日を言い当てるようなカレンダー計算、見たものを全てそのまま絵に再現できる能力、驚異的な暗算能力などが紹介されることが多い。

*3:ワーキングメモリーは、日本語では作業記憶。何か課題を遂行するときだけに一時的にオンラインに保持する記憶力のことを言う。例えば電話番号を電話をかけているときだけ覚えておくとかが当たる。訓練で伸ばすことは一定程度なら可能。

*4:ASD者の高いプライドは時に困ったことにつながる。能力として出来ないのにプライドだけは高いものだから、間違った自分を指摘されることに我慢がならず、指導を素直に受け入れられない。一番病、常に一番でないと気が済まないことにもつながりやすい。好きな選手などもそうで、例えばサッカーならメッシやロナウド、野球ならイチロー大谷翔平のようなその業界の一番だけが好きで、どうプレーをしているかなんて関係ない、という人がいたりする。結果だけが大事で、勝てない、一番になれないとそれまでの頑張ったことを全部否定してしまう。