βブロッカーはあがりの振戦を予防する

 以前、診察室にオーボエ奏者の女性が来た。聞けば来週オケの入団試験であり、音が震えてしまうわけにはいかないという。もともと緊張すると震えやすく、そのせいで演奏に失敗した経験もある。考えると不安でたまらないが、今回の試験で失敗は許されない、と。正直この方に認知行動療法をするのは間に合わないし、SSRI(抗うつ薬;社交不安の第一選択)+抗不安薬は効くかもしれないが一般的には効果発現までに時間がかかる。
 この女性にはβブロッカーの古い薬、プロプラノロール(インデラル)10mgを頓服として出した。テスト前30分の時点で飲んで欲しいと。
 結果彼女は入団テストで緊張感はあるものの震えることはなく、しっかりと思い通りに演奏でき、合格することができた。


 さて、このオーボエ奏者の言葉で注目して欲しいところは太字部分にある。このβブロッカー、不安を直接和らげるわけではなく、まして緊張を失くさせるわけではない。ただ、震えなくしているだけで十分なパフォーマンスを可能にさせている。


手足の震えが起きやすい人の場合、緊張場面ではこんなことになる。まずは早鐘のように打つ心臓の鼓動(動悸)を感じる。すると同時に手足も震えてきてしまう。そして一旦それを自覚するとますます震えは強くなり、その悪循環は止まらない。


 緊張 ⇛ 動悸 ⇛ 震え ⇛ 自覚 ⇛ 動悸⇑ ⇛ 震え⇑ ⇛ 自覚…


 心身相関という言葉どおり、身体に動悸という変化が生ずると精神もそれに呼応して不安が増し、震えが起きやすい環境が整う。
 βブロッカーはこの悪循環を止める。βブロッカーは交感神経系の過剰興奮を抑え、動悸を予防する。すると、これまでは緊張場面で震えていた人も動悸が無いことで落ち着ける。動悸が無ければ不必要に更なる交感神経系の活発を避けられ、動悸から震えに至る連鎖を止められる。


 ある研修医。
 採血する際に手がプルプルと震えてしまうという。それでできるの?と質問すると、実はできる。手や腕の位置を工夫すれば指先のクリティカルな作業に関しては実用上問題ないと。ただ震えるのを人に見られると怖がられるし(そりゃそうだ)、震えなくなれば嬉しい。プロプラノロール10mg服用にて震えが消失、その後経験を積むにつれてそもそも採血をはじめとした医療手技において緊張感が弱くなり、服薬無しでも震えを自覚することは滅多には無くなった。


認知行動療法が本質的治療ではないのか
その疑問は正しい。社交不安障害における一般的な認知行動療法の技法は、これまで書いてきたようなパフォーマンスに限定した震えが生じる方々にも明らかに有効だ。実際そのような人でも、過度な交感神経系の亢進が無ければ震えていない。そもそもそのような緊張状態は不安が惹起される状況下で起こるのだから、心理面がある意味鍛えられれば予防可能だろう。例に挙げた研修医さんも医師として経験を積むことによって服薬なしでも済むようになったのだから、言ってみれば「心の持ちよう」なのだ*1


ただ、それでも震えが起きてしまう人は、「あがっても震えが明らかには顕在化しない人」に比べてハンデを抱えていることに注目してあげたい。


これまでの経験から、プロプラノロールが有効な人に関しては、震えを止めるだけで、パフォーマンス中の心理状態に余裕が生まれ、緊張はしていても十分に課題をこなせるようになる。それを繰り返せば胆力もついてくるし、人によっては薬は不要になる。誰でも緊張する場面で平気になる方さえいる。そのような人は、服薬による余裕が、自然な認知行動療法を可能にさせている。以前は取っていた安全行動*2を減らし、自信が生まれることで暴露場面を厭わなくなる。


 尚、日本語では体験談を余り読むことができない。情報が少ないのだ。
 以下、服薬の感想、英語だが興味のある方は翻訳して読んでみよう*3
   User Reviews for Propranolol


プロプラノロールはドーピング対象薬だ
アスリートの方は注意して欲しい。
日本薬剤師会のドーピングガイドブックによればβブロッカーは、
 静穏作用のため選手の不安解消や「あがり」の防止、また心拍数と血圧の低下で心身の動揺を少なくするため禁止*4
とある。


競技は限定されているものの、その適応は航空スポーツ、自動車から、カーリング、ゴルフ、レスリングまで幅広い。


薬剤師のためのドーピング防止ガイドブック


筆者が思い出すのは2008年の北京オリンピック、射撃で北朝鮮のキム・ジョンス選手がプロプラノロール服用にて引っかかり、銀メダルを剥奪されたというニュースだ。

  北京オリンピックのドーピング 1 北朝鮮射撃選手メダル剥奪ほか

服薬の理由までは定かではないが、もしこの選手が、腕は立つもののあがった時に震えやすく、それさえ克服できれば、と本人やコーチが期待していたのだとしたら気の毒に感じてしまうし、あの国なので大丈夫なのかなとも…。


「不安症」に気づいて治すノート

「不安症」に気づいて治すノート

自分で治す「社交不安症」

自分で治す「社交不安症」

*1:筆者もまあ緊張しいだが、学会や講義・講演で「あがってしまう」ことはまず無くなった。機会が多く慣れたということもあるが、「聴衆は俺の話を聞きたいから来てくれていて、俺の味方なんだから優しく聞いてくれるはず」と図々しく思うようにしてから随分と楽になった。

*2:安全行動とは、緊張した時に思わずしてしまっている手いたずらや視線を逸らす、身体の何処かを触る、人に会う前に会話をリハーサルする、などである。それらをすることで不安の軽減を図っているのだが、実は不安な気持ちを強く維持させてしまうので認知行動療法ではその行動を失くさせる。

*3:余談だが、海外(アメリカ?)では患者自身の言葉で、病気、手術、服薬などの感想が率直に述べられていることが多い。医者の言葉だけでは、たとえどんなに親切に説明されても実感が伴わない。医療への疑問があるときには、海外掲示板を探してみるのをお勧めしたい。

*4:逆に気持ちが静穏になることでパフォーマンスが低下することもあり得ると思うのですけどね。セックス不安のある男性でプロプラノロールを服薬すると緊張もしないが興奮もしなくなり、却って良くなかったという感想をもらったことがある。