医学部を辞めてみた(1)

dneuroはこれまで房総の某国立大の(1つしかないけど)神経生理学分野教室の講師をしていたが、このほど会社設立のために辞めました。


医学部生活は2007年度から2017年度プラス1ヶ月。


教授の厚意で大変快適な研究&教育生活を送れ、個人的にはパワハラアカハラなどとは少なくても所属教室では無縁だったのは当たり前のことなはずだが、世の様々なエピソードを聞くに大いに感謝すべきことと感じてます。いや実際教授には感謝しか無いのですよ。自由にさせていただきました。大学院生にも恵まれて、自分が中心に指導した子が2人研究方面の職に就いたのは、大きな成果と誇りたい。*1


さてさて、この約10年基礎系医師研究者として過ごしてみて思ったことを簡単に。


何を置いても研究資金が欲しい


就職した途端、心細くなったのは研究費。

今でこそ科学研究費(科研費という)を取ることがまあまあできるようになったものの、研究はとにかく金がかかるのです。
生物系の研究をやる人は知っていると思いますが、とにかく機材1つ、試薬1つとっても高い。高い。


例えば、DNAを増やす技術、PCR。とっても基本技術だが、そのPCRを行う機械はいっぱしの性能を持つものが欲しければ普通は50万くらい。
組織や細胞の中で今増えている遺伝子を計測するためのリアルタイムPCR。そのための機械は、今は知らんけど自分が買ったときで300-500万くらい。
またそういったPCRを行うための試薬として、まずは遺伝子を組織から抽出したりするキットを購入するが、これらがまた高い。使いやすいあるメーカーのキットは250サンプル分で5万円ほど。それ以外にも当然細々した道具が必要で、これらがまた海外製。代理店を通して買うのが一般的であり、関税なども含めて、大体アメリカで購入する2倍くらいが相場。そう、日本で買うと何でも高く付くのです。


今では欧米に遜色ない研究が日本でも十分にでき、そういう意味では業績を積むのにわざわざ海外留学をする必要というのは感じないのですが、研究環境という意味では、この試薬や機械の価格面という1つをとっても日本で研究することはハンデを抱えていると感じます。



科学研究費として国からもらえるお金は幾つもの種類に分かれているのですが、若手研究者の応募する若手Bとか、基盤Cといった下層の研究費は、上限がそれぞれ2年間、3年間で500万。あら、これじゃリアルタイムPCRの機械すら買えんわ、という…


医学研究には生体試料も必要だ。


例えばマウスちゃんたち。


全く心苦しいことこの上ないが、医学研究の大部分にマウスくんたちの犠牲が必要。彼らマウスも様々な品種を研究によって使い分けるのだが、dneuroが研究に使っているマウス、C57BL/6という。彼らは♂1匹1500円。
マウスの数は研究にもよるが、自分の場合50-150匹くらいは使います。これら全てを購入で賄おうとすると75,000円から228,000円なわけで、マウスも高い。
メスは更に高く、様々な条件に沿った、例えば遺伝子改変マウスは目が飛び出るほどの値段であることも。マウスでこれだけ高いのだから、大柄なラットや、別な動物たちの値段は推して知るべし。*2


大学院時代に行っていた細胞研究は、使いたい細胞にもよりますが、数万円から数十万円で細胞を買います。そして維持にも莫大な金が必要であり、先の科研費なら、少額を当てるだけなら到底継続した研究は望めないのです。維持費が月々数十万で済むなら安い方。


ともあれ、まあまあとにかく研究には金がかかると言いたいわけです。


若手教員にとってのジレンマ


ことほど左様に資金が必要ながら就職当初は資金に悩むわけです。研究室にいる以上教授が獲得している研究費から必要な試薬や機器は購入できるはずだって?

普通そうなんでしょうけど、有り難いことに自分は基本的に「自分がやりたいテーマ」で研究することを許容してもらえていました。逆にいうと教授がやろうとしているテーマと無関係な研究をするのに、教室の研究費を使わせてもらうのは、2つの意味で申し訳ないというか、基本イカンのですよ。というのも教授は当然自分のテーマに沿った形で申請して研究費を獲得しているので、当然ながらdneuroの研究に費用は出せない。当時教授の研究の担い手は大学院生と実験助手さんだったので。まあもう1つはそもそも駄目なのはあるけど、仮に共用できる機器や試薬を買ってもらったとしても、やはり肩身は狭いというか、半人前、学生と変わらんという状況になるわけで…。



科研費を獲得したら状況は変わったのか?


ところがですね、大学院生と一緒になってやるわけですが、彼らの技術を上げていく必要があり、かつそれにもお金がかかるわけです。自分が贅沢に使ってしまえば彼らに使ってもらう金がなくなり、彼らにお金を使ってもらえば私の分が無くなってしまう…。


問題は技術習得をどうするか。


新しい技術の習得は自分よりも院生さんを優先させるべきかと悩んだり…。ココらへんは他の研究者の皆さんはどうなんでしょうかね…。


結果としては院生さんを優先して技術習得をしてもらいました。だって彼らが活躍しないと結局研究室全体としての活力が生まれないし、彼らが力をつければ研究室の業績が上がるわけだし…私は博士課程までで身につけた技術を使えば当面の研究には困らない。ある時院生に「俺だってもっと自分で実験したい」とぼやいたら、「えっそうなんですか?」と。悲しかったな…。



というわけで、博士課程までにできるだけ色々と身につけておこうよというのは大事です。



多分私の長所でもあり欠点でもあるのは広く浅くいろんな研究に携わったこと。
遺伝子解析(RFLP,Taqman,Northern, シーケンス、メチル化)、動物行動、免疫染色、人の認知機能解析、人の脳画像(MRI,MRS,NIRS,tDCS,脳波)などなど。おかげで理解だけなら広範囲にわたって。化学系の方に指導いただいたときは辛かった。医者の研究が如何にいい加減か思い知らされたから…。



思うようにいかない研究費獲得


就職1-2年目はとにかくお金が欲しいからいろんな研究助成に申し込む。


科研費は当然として、民間企業が結構色々と助成をしてくれる。若手の間は。40歳までは!


でも当初は何に応募しても落選ばかり…。特に誰かに教えてもらったりするわけでもないし、申請書は自分で工夫しつつ。


闇雲に応募したので打率1割くらいかな。NatureDigest誌の誌面だったか、オーストラリアの研究者の話として「優れた研究者の指標は打率3割」みたいな記事を読んだことがありましたが、彼女も含めそれってハードル高いです。苦しんでいる若手の方、皆さんもめげずに頑張って下さい。


で、ある時から獲得ができるようになりました。いや今でもそんなに自信があるわけじゃないですが…。


もし、なかなか申請が通らないという方がいましたらとりあえず私が心がけていることを。


・書式は守る。…当然だけど、落ちている人に守っていないことが多かったり。
・応募先にとって魅力的なタイトルを。
・内容は、その分野の素人が見てもわかるように、わかりやすく、話を必要以上に複雑にせずに。
・具体的に書く。何を使うのか、誰に助けてもらう、もらえるのか、今どこまで進んでいるのか。


若手の盲点として、審査する人は自分の研究内容などわかっているだろうという思い込み。だから読み手に知識がある前提で申請書を難しく書いてしまう。


だめだめ、審査する人は大体が年配の方で必ずしも最新技術そのものには精通していないし、膨大な申請書カタログを前にどうしようかと頭を抱えている(多分…)ので、読むのに労を要させないこと。レベル設定は案外難しい。



若手の直面する理不尽


最後に理不尽に対する文句を一つ。


就職して若手Bに落ちたときのこと。かつての上司に審査って何を見るんですかね?と聞いたら「業績」、と。

えぇ、業績ってこれから作るんじゃないの???


内容わからない時、業績欄が埋まっていると、こいつできるなと思われるよと。これって凄い理不尽ですよね…まあでも有力研究室が研究費獲得しやすくなるのは、そういうからくりもあるのねと思った次第。


それでも良い申請書を書けば目につくはず。これからの人は頑張ってください。


アット・ザ・ベンチ―バイオ研究完全指南 アップデート版

アット・ザ・ベンチ―バイオ研究完全指南 アップデート版


研究室の指南本といえばやはりこれ。本棚にあると気分が盛り上がります(ました)。



持っている人がいたなあ。色々参考になることが書いてあるに違いない。dneuroはこの手のは当時なかったこともあるし、使いませんでした。今読んだらそれはそれで役立つと思います。なにせ高額の助成(1千万以上とか)には単独で申し込んだこと無いし。


そう、それとどうなんですかね、大学では科研費獲得のために自分より上級職に申請書を添削してもらう制度があるんですが、個人的にはイマイチ…。

*1:ま、dneuroが優秀だったのではなくて、優秀な大学院生に恵まれただけですけどね…。先日、優秀な教員としての賞をいただいたが、それは「優秀な学生に恵まれたで」賞と知人に言われた。ほんとそのとおりだ。

*2:ちなみに私自身はマウス以外を実験動物として使いませんでした。より上位(?)の動物たち、ラットやサルは脳研究のためにはマウスよりも優れた実験動物ですが、すみません、殺したりするのに抵抗ありまくりのダメ研究者でした。ショウジョウバエとか線虫を使いたかった気持ちはありますが…。

抗ADHD薬の値段を他の精神科治療薬と比べてみる

ADHDの方に処方する代表的2薬、継続するにはかなり経済的に負担がかかる。


改めてその印象が実際のところどうなのか、薬価サーチにて計算してみた。
結果は下図のとおりだが、やはり3割負担で相当に高い。特に日本イーライリリー社のストラテラ(一般名:アトモキセチン)は相当高い。
120mgの目いっぱいまで使うと月に約12000円、年間15万円。
ヤンセンファーマコンサータ(一般名:メチルフェニデート)も高いがそこまではいかない。最大量72mgまで使っても(dneruroはそこまで処方したことは殆ど無いけど)月に7200円、年間8.8万。


ということで、自立支援医療制度を使った場合と比較もしてみたが、やはり随分楽になる。特にストラテラではその恩恵は大きく、最大量120mgの場合には、3割負担との価格差が年間10万にもなり、所得によってはもっと少なくなるだろう。



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ADHD薬の使用は、逃れられない無い特性からくるハンデを和らげるのに正当な医療と考えるので、自立支援医療制度は積極的に利用すべき、と思う。

www.wam.go.jp



他の精神薬はどうか。

こちらはジェネリックとの比較をしてみる。
やはり日本イーライリリー社のジプレキサ(一般名:オランザピン)は高い。ジェネリックとの価格差は1年で2万円を超える。
一方代表的な抗不安薬で古くからあるワイパックス(一般名:ロラゼパム)はほとんど差がない。


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他にdneuroが比較的外来でよく使う身体疾患治療薬だとこちら。
うーん、そうか、必ずしもジェネリックとの価格差が先発薬に無く、これらは正直ジェネリックの品質がわからない状況なら先発品のほうがいいという発想ありだな。

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ちなみに今日の薬のお値段はこちらで調べました。便利。

yakka-search.com


尚、ジェネリックにも実は価格差があって、恥ずかしながらそれは今回初めて知ったのだけど、その理由はこちら(pdf)。

後発医薬品の価格と価格帯について


最後に、ストラテラジプレキサも高いですけど、その価値はある薬だと考えていますよ。

DSM-5 神経発達症群の診断名

発達障害というと一般的には図のように自閉症スペクトラム(ASD)、注意欠如多動症(AD/HD)、それに学習障害という形で紹介されることが多い一方で、医療系が診断書に書くときに参考にする診断基準はちと違う。

 

WHOの診断基準はICD-10といい、公的な診断書に使われる。一方で、精神科臨床や研究上頻繁に使われるのはアメリカの精神医学界の診断基準、DSM-5。DSMは改訂のたびに疾患の定義や範囲が大きく変わることもあって正直わかりづらい。もっともそれは改訂のたびに一線級の医学者が様々なエビデンスをもとに真剣に議論し、かつ世界的にも広く意見を求めた上でなので、素晴らしいことなのだが。

 

とりわけ、ASDとAD/HDは神経発達症群の中に含まれた。この分類はとても使いやすく感じる。併存診断も可能になった。従来は駄目だったのだが、これは臨床をよく反映していると思う。ただし、そのせいで診断を曖昧なままにすることも可能にしてしまったとの批判もあり、診断時には注意したい。実際、AD/HD単独でもコミュニケーションの問題やこだわりを抱えることもあれば、ASD単独でも注意・集中に問題を抱えるものだ。

 

さてざっと見た限りDSM-5の神経発達症群の一覧がネットに出ていないので、今回載せることにした。今の概念だと、例えば発達運動強調障害は、ASDに含まれるわけではないんだよなと。確かにASDやAD/HDで協調運動の問題を抱えている人は多いが(=要するに不器用)、必ずしもそうなわけでないしな。でも症候をそれぞれ独立診断名にしていくと最後に残るのはどういう部分だろうか。

 

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h-navi.jp

 

 

 

DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル

DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル

 

 

DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引

DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引

 

 

 


 

発達障害、昔は少なかったの?

発達障害の講演を時に依頼されることがあり、その折に質問に多いのが、「昔は発達障害なんて問題になっていなかったのになんで今はこんなに増えたの?」とか、「発達障害は増えたの?」という類。


以前も書いたように診断数に関しては激増している(⇛ASDは増えているのか?)。アメリカ疾病予防管理センター(CDC)の統計では2000年に150人に1人(0.67%)だったASDは2012年では68人に1人(1.47%)だ。ADHDも4-17歳の子どもで2003年の7.8%から11.0%(!)へと増加している。日本では、ASDの乳幼児期の頻度が1995年時点で1%を超え、ADHDでの小中学生を対象にした文科省の調査では4%と推定されている。*1


中年以降に結構多いじゃん


さて、冒頭の質問は結構年配の方から発せられることが多いのだが、内心思うのは、「いやあなた方の世代に沢山いるじゃん」。
実際、dneuroの上司世代、患者さんの親世代には未診断だけれども、明らかにASDADHDだよね、という方はいらっしゃる。医療の世界にはそれこそ両者とも非常に多い。能力と環境がマッチして活躍している方々も多いし、一方でちょっと困った方と感じる方もいる。まあともあれ印象としては少なくない。*2


診断基準が変わったことによる検出の増加


これは非常に大きい。特にASDは、診断基準の改訂とともにその診断範囲を広げている。自閉的行動特徴がその程度が軽度から重度まで連続的に分布しているから、それはそれで正しいのだけれども、診断対象が広くなるのだから数が増えるのは当然。


デンマーク国民総背番号制が徹底しており、医療情報を元にした疫学研究の信頼性が高い。そのデンマークのある研究ではASD診断数増加のかなりな部分が診断基準の改訂と、データベースへの外来患者への導入で説明できるという。1994年までそういった診断数は入院患者データを対象としていたのだが、1995年からは外来患者も入れるようになり、それにより外来レベルの軽いレベルのASD患者がデータに入ることになって、そりゃ数は増える。*3


bit.ly



大人を今の診断基準で調べてみよう


さて、中年以降にも多いじゃん、という単なる印象を証明するとすれば、成人でも現在の診断基準で調査すればASD,ADHDの頻度が子どもと変わらないレベルであることを示せばいい。


2011年に英国で発表された研究がその示唆を強く与えてくれる。*4


その論文で調査された16歳以上の7461人のASD頻度は年令による差が無く、子どもに匹敵する約1%であったという。


また、ADHDに関して60歳以上を調査対象としたオランダの研究では2.8%、フランスの成人対象の調査では2.99%の頻度だったという。*5

CDCの推定よりは少ないが、ADHD特性は年齢とともに和らぎ、診断基準を満たさなくなる人も多いので、子どもの頻度に十分匹敵すると言えるのではないか。


ということで、子どもにばかり多いってわけじゃないよ、と言いたいのが今日の結論。


更に言うと、発展途上国では未だ頻度が低い報告が多いが、それは先進国のほうが第3次産業が多くて特性が顕在化しやすいということと、保健医療サービスへのアクセスが先進国とは段違いに悪い、ということがあるのではないか。


発達障害の原因と発症メカニズム: 脳神経科学の視点から

発達障害の原因と発症メカニズム: 脳神経科学の視点から


今日の主張は実はこの本への反論という側面を持たせているつもり。
本書は発達障害を脳神経発達の異常という観点から捉えた時に、環境要因が様々な生物学的変化を引き起こしているのがその異常の原因となっているという主張を展開する。ストレス、環境化学物質(農薬やPCBなど)、重金属や薬剤などへの暴露などが、遺伝子変異や遺伝子発現の変化(エピジェネティクス)に関わっており、結果的に発達障害を増加させているという。


もちろん、その可能性はあるし、dneuroも全否定するつもりはない。でも本書はちょっとそれを強調しすぎな気がする。


環境要因が増加させているというのは現代生活への不安を煽る可能性もあり、その主張には十分に気をつけるべきだ。ワクチンを自閉症の原因としたような混乱を社会に招きかねない(ワクチンに関しては本書も明確に否定)。dneuroは今の環境が本書が述べるほどまでに、人間の脳発達に脆弱性を引き起こしているのかは疑問に感じる。環境因子という点では、頻度が少ない発展途上国のほうが種々の環境物質に対する法令も未整備で、先進国より条件が良いとは到底思えないし…。

*1:Honda H, Shimizu Y, Rutter M. No effect of MMR withdrawal on the incidence of autism: a total population study. J Child Psychol Psychiatry. 2005;46(6):572-9.

*2:活躍している人が多い事実は、ASDADHDの特性=障害ではないということを示している。ただし、自分の特性に自覚的でないと、周囲の人を巻き込んで一定の問題を抱えていることは多い。

*3:Hansen SN, Schendel DE, Parner ET. Explaining the increase in the prevalence of autism spectrum disorders: the proportion attributable to changes in reporting practices. JAMA Pediatr. 2015;169(1):56-62.

*4:Brugha TS, McManus S, Bankart J, et al. Epidemiology of autism spectrum disorders in adults in the community in England. Arch Gen Psychiatry. 2011;68(5):459-65.

*5:Michielsen M, Semeijn E, Comijs HC, et al. Prevalence of attention-deficit hyperactivity disorder in older adults in The Netherlands. Br J Psychiatry. 2012;201(4):298-305.,Caci HM, Morin AJ, Tran A. Prevalence and correlates of attention deficit hyperactivity disorder in adults from a French community sample. J Nerv Ment Dis. 2014;202(4):324-32.

片頭痛に新しい薬が近づいている

片頭痛を抱える患者(dneuro含む)には朗報といって良いか。間もなく新薬が出る。
内容に間違いも多いけど、こんな記事も出た。


tocana.jp


抗CGRP受容体抗体エレヌマブは片頭痛に有望
大塚製薬、片頭痛予防薬「フレマネズマブ(TEV-48125)」の日本国内での開発・販売独占的ライセンス契約を締結


新薬はエレヌマブフレマネズマブ。舌を噛みそう…。~マブということで抗体医薬品であることがわかる。分子標的薬と言われる一群の薬が特に癌で話題になっているが、これもその1つ。抗体はそもそも免疫系が外来分子を攻撃するためにリンパ球が作り出すミサイルのようなものだが、特定の分子(抗体ならタンパク質)を標的に結合することでその分子の機能を阻害する。ちなみに話題になった抗がん剤オブシーボの一般名はニボルマブ

で、この2薬、ターゲットのキーワードはCGRP。CGRPです。

新薬が如何に期待を持たれているかは、医学専門誌のタイトルにも現れている。医学誌の中では最も権威ある雑誌の1つ、New England Journal of Medicine (NEJM)誌では、昨年“CGRP-The Next Frontier for Migraine”と題した論説と、2篇の臨床試験結果を大きな期待を持って紹介した。


CGRPの血管拡張作用と片頭痛

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さて、CGRPって何よ?という話だが、カルシトニン遺伝子関連ペプチド(calcitonin gene- related peptide)の略である。37個のアミノ酸からなるペプチドで、神経末端から作られ放出されるが、強力な血管拡張作用がある。この血管拡張作用が問題で、片頭痛に大きな役割を演じているようだ。何らかの理由で、顔面の感覚支配をしている三叉神経が刺激を受けると神経末端からCGRPが放出され、血管拡張作用を経て片頭痛に至る…という(図参照)。*1


このCGRPを受け取る受容体(=CGRP受容体)は脳内に広く分布しており、大脳皮質、線条体扁桃核、海馬、小脳などなど。


エレヌマブとフレマネズマブ

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で、この2剤が片頭痛予防に非常に期待が持てるという臨床試験結果が昨年公表された。特にNEJM誌に同時に発表された結果は非常に良いものであって、発売が近いこの2剤への期待を高めるもの。


エレヌマブはCGRP受容体への抗体であり、CGRPが結合する場所を無くしてしまう。つまりCGRPが放出されても受容体にくっつけずCGRPの血管拡張作用が出なくなる。


一方、フレマネズマブは直接CGRPに結合してしまう抗体で、CGRP受容体に結合できなくなってしまう。それによりCGRPの血管拡張作用を阻害する。


どちらも皮下注射薬で、エレヌマブ研究の方は月に1回投与。70mgと140mgと2つの用量を投与することで、4週間後以降の片頭痛発作回数が対照のプラセボとどの程度差があるかを比較した。


フレマネズマブの方は月に1回投与と、3ヶ月に1回(=年4回)投与群にわけ、12週までの片頭痛発作回数の変化をプラセボと比較した。


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多少の違いはあれど、比較法は似ているので、2つの結果を横に並べてみました。


うん、これを見ると、両者ともなかなか良さそう。
臨床試験リクルートされた患者たちは、年齢も体重分布も似ているが、片頭痛日数の平均はフレマネズマブのほうが多く、エレヌマブ試験より重症度が高い人たちが多いかもしれない。また性別は圧倒的に女性(85%以上!)が多い。ボディ・マス・インデックス(BMI)を見ると26前後と高いことから、ふくよかな女性が多く参加したらしい…。


さて、効果。

エレヌマブ試験群が頭痛日数で、プラセボ群が月に8日から6日程度に、実薬群は4-5日程度に減っている。また、月に3回ほどあった片頭痛薬使用がプラセボではほぼ変わらず、実薬群で特に量の多い140mg群ではほぼ半減。


フレマネズマブ群でも頭痛日数でベースラインの16日から、プラセボ群2日vs実薬群4.5日の減少、10~11回だった頭痛薬使用回数がプラセボ群8回、実薬群6-7回に。


これを多いと見るか、この程度でしか無いと見るか…
効果のある参加者では片頭痛頻度が半減以下になっているようなので、恐らく劇的に効く場合が結構あるのではと期待したい。


問題は…
副作用に関して言えば、2つの試験ともに目立ったものはなく、いずれもプラセボ群と内容も程度も変わらなかった。その点では安心して良さそうだ。もちろん発売されれば桁違いの人数に投与されるので、どんな副作用が出るかはわからないが。


皮下注射はどうだろう?
基本予防薬が毎日服薬せねばならず、かつ効果もはっきりしないことが多いのに比べれば、痛い思いはしても、月に1回もしくは3ヶ月に1回の通院で済むなら利便性は上ではないか。


一番の問題は費用になりそうだ。
どうも最初は年間で8500ドルほどかかると予想されているらしい。円じゃないですよ、ドル。つまり3割負担でも30万くらいかかる、と。これは高い…そういえば抗がん剤オブシーボも高くて問題になった。なので、しばらくはチャレンジする人で殺到ということは無さそうな気がする。


とはいえ、片頭痛の弊害は実に大きい。
辛く、苦しいだけでなく、経済損失も大きいことは以前書いた(⇛片頭痛の思い出と経済損失)。慢性片頭痛患者は月に15回以上もの片頭痛発作に苦しめられているので、これまでに無い選択肢が増えるのは歓迎したい。


片頭痛患者でもあるdneuro自身が受けるかどうか。うーん、今の片頭痛頻度(月に2-3回)では適応が無いかな。夏に入る頃、特に日光で誘発されることが多いので、それが予防できるかは試したいと考えている。


誘発を気にせずに日常生活が送れれば人生が変わると思う。


CGRPは悪者なだけじゃないよ
ところで、CGRP、片頭痛を引き起こす悪者かといえば、大事な役割も担っている。特に末梢では皮膚が何らかの痛み刺激によって傷つけられると、そこに分布する神経末端からCGRPが分泌され、血管を広げ(拡張し)、様々な物質の血管透過性を上げることで、炎症反応を誘発、つまり発赤や腫れ(腫脹)を起こす。これが起きないと、傷口の治癒が遅れるだろう。加齢に伴うCGRPの低下が褥瘡の原因になっている可能性がある。

さらにCGRPは、ラットの脳室内に直接投与すると記憶増強が見られる報告もあり、脳で何らかの神経伝達物質的役割を担う上に、うつ病治療に役立つ可能性を示唆する研究もあったりする。


症例から学ぶ戦略的片頭痛診断・治療

症例から学ぶ戦略的片頭痛診断・治療


専門書。様々な片頭痛への対応を知ることができる。ひどい片頭痛はどうやっても解決できないことがある。どの予防薬を使っても効果が無く、副作用ばかりで、発作治療薬であるトリプタン製剤を月に20回も使う方にとって、エレヌマブやフレマネズマブが救世主になることを心から期待したい。

*1:片頭痛のメカニズムはわかっているようで、わかっていない。最近ではこのような三叉神経主因説から、大脳皮質拡延性抑制説(Cortical Spreading Depression)に移っているようだが、痛みにどう繋がるか正直私にはよくわかりません。

脳は大人になっても変わるから学習できるし傷ついても回復する…_tDCS入門(2)

更新の間隔がこれまでで最長になってしまった…色々と考えることがあったので少数の待ってくださっている方にはすみません。


www.neuroelectrics.com


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研究室ではスペイン(珍しい!)のベンチャー企業Neuroelectrics社が開発したSTARSTIM tCSという刺激装置を手に入れた。これはなかなかスグレモノで、PCと刺激装置を図のように装着し、Bluetoothによるワイヤレス接続で繋げてtDCSが可能になっている。すこぶる使いやすいので研究も進むかなと期待。ちなみに代理店購入でおよそ120万程度。*1





脳は変わる。可塑性を持つ。

かつて人の脳は成長してしまうともう変わらない、と考えられていた時期があった。


基本的に脳の成長は一定の年齢に達すると止まり、逆に年齢とともに成長どころか下り坂…。脳細胞は20歳を超えると死滅する一方というのはよく聞く話。ある学説によれば大脳皮質の神経細胞は140億個ほど、20歳からは1日10万個ずつ死ぬという。すごい数ではあるが、脳細胞の数が膨大なので、1年かけても死滅数は全体の0.3%にとどまり、同じペースで死んだとしても70歳までに減る細胞数は18億個、つまり9割近くは保たれる。*2


そんな脳が一定以上成長すると変化しないという説は完全に撤回された。


人の脳は体験によって変わる。形も変わるし機能も変わる。
しそれが無かったら人は大人になってから何も学習できないことになるが、そんなことは無いわけです。

脳が刺激によって、神経ネットワークを新たに構築して変わりゆく性質のことを可塑性(かそせい)という。tDCSが脳機能を改善(改悪もありうるけど)させるのは、大脳皮質の可塑性を向上させるから。その前提になるメカニズムがなければ、外部からの刺激で脳機能の向上なんて考えられない。例えば弦楽器奏者の指の脳における感覚領域は、そうでない人たちに比べてずっと空間的に広がっているという。練習によって感覚が鋭くなっていくのは、それを知覚する脳領域が広がるからなのだ。(dneuroは24歳からバイオリンを始めたが上達はさっぱりだ。きっと脳の可塑性が弱く、感覚領域が広がりづらいからだろう。悲しいことだ。)


いずれにしても、変わりうる脳、があるからtDCSも効果を期待できる。


そんな脳が脳卒中や交通事故などでダメージを受けた時、我々は脳の可塑的な変化を再び感じることができる。


壊れた脳 生存する知 (角川ソフィア文庫)

壊れた脳 生存する知 (角川ソフィア文庫)


著者は、もやもや病という脳血管の病気によって脳障害を負った整形外科医の女性である。もやもや病は難病指定もされている疾患で(⇛http://www.nanbyou.or.jp/entry/47)脆い血管の固まりが脳内に出来てしまい、脳内出血に至る可能性がある。そう、そして著者の山田先生はその血管が破れてしまった。1度目は大学6年生(医学部は6年制)、2度目は34歳、そして3度目のとりわけ大きかった脳出血は37歳。右の頭頂葉にできていた血管の固まりが破れて大出血を起こしたようだ。右の頭頂葉の出血が引き起こすのは基本的には身体の左側の感覚障害や運動障害(麻痺)だが、それだけではない。いわゆる高次脳機能障害と呼ばれる様々な症状に苦しむ。


実は大脳半球の障害としては、左半球損傷の場合には、左脳が言語中枢であることもあって、その障害が非常にわかりやすいのに対して、右半球損傷はわかりづらいことが知られている。*3


山田先生も左半身の麻痺に加え、例えば「二次元の世界」の住人になったという。タイル張りの道では見えているのが模様なのか、穴なのか、硬いのか、歩けるのかわからない。遠近感が消え、階段は横に走る直線の繰り返しに見えてしまうから登るのか下るのか、実際に足を踏み出さないとわからない。それは怖い。


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また、半側空間無視という症状がある。左側に注意がいかなくなる症状で、視覚的な左側の無視は、図では点線赤丸にその症状がよく出ている。時計の左側、線分抹消の左下、筆算の左側、そして囲碁で左が無視されているのがわかる。左手があることも忘れてしまうし、食事を食べればお膳の左側は食べ残す、服を着ることにも苦労する。考えてみると、視界に「左側」は必ず存在するので、それが常に相対的に意識下で「見えなくなる」のは実に不思議。でも実際に無視が起きてしまうからしょうがない。ただし、意図することで、つまり「左側は見なきゃ」と意識することである程度はなんとかなる。


そんな山田医師の症状だって歩みは遅いものの回復していく。実感としては2年かかるようだ。時間の経過とともに霧が自然と晴れていくように回復を感じるという。本人も周りも忍耐が必要なのだ。


山田先生にとってリハビリの大いなる助けになったまず第1は息子くん。3歳時に倒れた母の日常を精一杯助けてくれる。後半息子への愛が溢れる記述には思わず泣いてしまう。そして、姉の夫たる脳外科医は経営する老人保健施設の施設長として山田先生を早期に復帰させてしまう。勇気がある。


しかしなかなか高次脳機能障害というのは厄介で、やはり見かけではわからず、それでいて変な行動に至ってしまう当事者にはどうしても偏見がつきまとう。なんでそんな失敗してしまうの?と。


切ないのは、「自分が何かに失敗したということは、実は本人もわかっていることが多いのです。」ということ。つまりわかっていてもできない。


当事者本の第2は文体がもっとくだけている鈴木大介氏のこちらを。


脳が壊れた (新潮新書)

脳が壊れた (新潮新書)

「再貧困女子」などの著作で知られる鈴木大介氏。2015年、41歳で右脳に脳梗塞を発症した氏は、麻痺は少ないものの、高次脳機能障害を負う。


やはり左半側空間無視に苦しむのだが、その当事者としての記述が失礼ながら面白い。入院治療後間もなくトイレに入った氏は個室に入って左側の便器を見てようやく気づく。白髪の老紳士が座って用を足している最中であることを。鍵をかけていなかった老紳士もどうかと思うが、要は左側を意識しないと見えないから、ドアを開けただけでは気づけなかったらしい。


また、この左側を見られないというのは、「左方向を見てはならない」という強い心理的忌避感、障壁があるのだという。この感覚を言語化するならば、視界の左前方に「親しい友人の女性や義母が全裸で座っている感覚」なのだそうだ。そりゃ見るのをためらうわ。


鈴木氏が本書を執筆したのは入院7ヶ月。回復途上真っ只中でこれほどまでの本が賭けるのだからその努力たるや頭が下がる。山田先生と同様に、病後の回復は、リハビリに保険医療が使える6ヶ月を超えても進んでいくのを実感するという。


tDCSがそんな脳の回復スピードを早められるデバイスになるのを望みたい。


最後にもう1つ。


脳はすごい -ある人工知能研究者の脳損傷体験記-

脳はすごい -ある人工知能研究者の脳損傷体験記-


こちらクラーク・エリオット氏はアメリカ人のAI研究をしている教授先生だ。脳震盪後の高次脳機能障害の自分が感じる世界を、研究者らしく極めて詳細に、時に回りくどく、そして難しく解説する。


エピソードを1つ。
エリオット氏にはジェイクという頼れる友人がいる。
ある日エリオット氏はりんごかサラミを食べようと迷った挙句に決められない。48時間もの間虚しく経過した後、氏はジェイクに電話をかける。どちらを食べるか指令してくれと。ジェイク氏の「サラミを先に食べてからりんごを食べろ」という的確な言葉でエリオット氏は2日間の苦悩と空腹から解放される。


さて、努力家であることは勿論ながら、3著者に共通するのは素晴らしい支援者の存在だ。鈴木氏には以前にはメンタルも病み、そしてADHD的性質を持つ妻が極めて氏に対して献身的だ。その夫婦愛が胸を打つ。私に果たしてこの3著者のように何かが起きたときに助けてくれる人が周りにいてくれるだろうか…。

*1:一般的な感覚からすれば120万はえらく高いだろうが、研究機械としては高くはない。上位機種は脳波測定が可能で、720万まであったりする。tDCSは原理的には簡単で、それこそ単に脳刺激するだけなら数千円で自作できないことはないが、研究目的に性能が保証された装置はそれなりにするのだ。

*2:これが数字的に実際にどうなのかは余りちゃんと調べたこと無いので、今度書いてみたい。脳細胞というか脳の神経細胞(ニューロン)は大人でも一定程度再生をしていることが知られている。ただそれは海馬などの脳の一部に留まるし、脳に含まれる神経細胞全体から見たら僅かな話。

*3:人の言語中枢は多くの人が左半球。特に右利きの人は9割。左利きでも6割以上が左半球に言語中枢を持つ。なので、左半球損傷では、言語表出が難しくなるタイプの失語症状を呈しやすい。言葉はわかるけど、上手く出せない、というのは本人には苦痛で、抑うつ的になりやすいのも特徴。

経頭蓋直流電気刺激法(tDCS)入門 (1)

2011年、イギリスの総合科学誌Natureで紹介されたのは、経頭蓋直流電気刺激(transcranial direct current stimulation: tDCS)という脳を直流電流で刺激する怪しげな機械とその方法だ。


www.natureasia.com


以下、論説の内容を1つ引用(太字、下線はdneuro)。


2007 年に Boggio と Fregni は、背外側 前頭前皮質に tDCSを行うと、被験者がリスクを冒さなくなる場合があることを 報告した。研究チームは、健康な大学生たちに、コンピューターのキーを押して画面上の風船に空気を入れるゲームをプレイしてもらった。このゲームで は、空気をたくさん入れるほど仮想の金がたくさん手に入るが、もし風船が破裂すれば、獲得した金をすべて失ってしまう。すると、tDCS を受けた被験者は、受けなかった被験者に比べてあまり欲張ろうとしなかった。この実験結果から、依存症にも適用できる可能性が考えられる。Boggioは、依存症では「抑制制御」が効かなくなっているのだと話す。Boggio は、Fregniらととも に、2008年に3つの研究を発表し、背外側前 頭前皮質を刺激した後では、酒やタバコ、甘い菓子を飲み食いしているビデオを被験者に見せても、それらを欲しがる気持ちがあまり起きないことを示した。研究チームは、最終的には禁煙の臨床試験で 同じ方法を試してみたいと考えている。


これはtDCSによる電気刺激が、危険回避に関係した選択を変えた可能性を示し、要するにtDCSは人の行動を変えうることを示唆している。使いようによっては、彼らが言うように依存症への治療になるほか、自分の能力を高めたり、また人の行動を変えてしまうような悪用にも繋がりうると予想される技術だ。


tDCSの基本


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tDCSでは、図(a)のように、人の頭に電極パッド(赤と青の四角いやつ)を当て、弱電流を頭皮から流す。電流到達先の目標は大脳皮質だ。電流の強さは0.5mAから2mA、これは9Vの乾電池 (あの四角いやつ)で十分に作れる程度の弱さで、流されてもせいぜい「チクチク」する程度に過ぎない。それを頭皮という脳が入っている頭蓋の外側から当てるので、「経頭蓋」という。御存知の通り電流はプラスからマイナスに流れるので、電極パッドにはプラス側とマイナス側があり、プラスサイドを陽極(anode)、マイナスサイドを陰極(cathode)と呼ぶ。基本的には陽極を当てた直下の大脳皮質の機能を上げ、逆に陰極を当てると直下の大脳皮質の機能が下がる、とみなされている。


tDCSの基本をまとめてみる。


・目的は大脳皮質の活動を変化させること。
・刺激は0.5~2mA程度の弱い直流電流を5~30分。
・刺激したい脳部位直上の頭皮から与える。
・基本的には非侵襲的な刺激であり被験者は電極位置に僅かな痒みを感じる程度。


どんな効果があるのか?


このtDCSを使った研究は近年その報告数が飛躍的に増大しており、図(b)は医学系論文検索サイトであるPubMedで検索した2001~2017年の17年間の論文数である。見て分かる通り2000年代には世界的に見ても報告数が年間数件しか無かったのに、この数年の伸びは著しく、2017年には714件。今年に入ってわずか1週間の間に既に33報報告があるから、単純計算で今年は1700報以上の論文が発表される可能性もある。


事程左様に急激に研究が進んでいるのは、もちろん効果が高いと期待されているから。


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その効果は、初期には認知機能、運動機能、感覚機能の強化や抑制を中心に報告されてきた。例えば認知機能を担う大脳の前方部分(前頭前野)にtDCSの陽極刺激を与えれば作業記憶が改善したり、逆に小脳に陰極刺激を与えれば作業記憶が低下したなどの報告。運動神経に司令を出す第一次運動野に陽極刺激を与えれば巧緻運動障害が改善し、感覚を知覚する第一次感覚野に陰極刺激を与えれば触覚が鈍くなるなど。


こういった比較的単純な課題での報告に加え、疾患への応用も期待され、片頭痛や慢性疼痛、脳卒中後のリハビリなどへの研究報告が蓄積されつつある。また、精神疾患においても、似たような脳刺激法だがこちらは磁気を使った、経頭蓋磁気刺激法(TMS)と並んで期待されつつあるというところ。


何故脳機能が上がったり下がったりするのか?


tDCSは先に書いたように陽極刺激で大脳皮質の機能を上げ、陰極刺激で大脳皮質の機能を下げる(そうは言っても電流は一方向に必ず流れるから、あくまでも目的の側に当てた電極の側で論を進める)。


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図にあるように、神経細胞はその細胞膜が一定の電位を持っている(膜を挟んで電圧がかかっている)のだが、信号が入ると、細胞膜内外からイオン(主にナトリウムイオンとカリウムイオン)の流れが生じ、膜の持つ電位がプラス方向に傾いたりマイナス方向に傾いたりする。


ものすごく大雑把に言って、膜がプラス方向に傾くと神経細胞が興奮しやすくなり、マイナス方向に傾くと活動が抑制的に向かいやすくなる。


tDCSをかけると、直下の脳皮質に分布する神経細胞で同じ現象が起きると考えられている。基本的に細胞膜の電位が上がると神経細胞は興奮側に傾いて、受けとる信号を強化する方向に働くし、細胞膜の電位が下がると受けた信号を弱める方向に働くので、陽極刺激によって神経活動は強化され、反対に陰極刺激によって神経活動は阻害される。


実際にtDCSの前後で、それは細胞の興奮がしやすくなる(しにくくなる)ことで確認されている。図のように、例えば運動野にtDCS陽極刺激を一定時間行った後に、手の筋活動を誘発させると、筋肉が発する筋活動が筋電図上で増大したり、筋収縮の持続時間が増すことが多くの研究で確認されている。つまり陽極刺激によって、筋肉に動けと司令する神経細胞の活動が高まるのだ。陰極刺激ならその逆。


tDCSは基本的には危険が少なくて取扱いやすい


そんなわけで、臨床応用に大いに期待したいtDCS。危険性は?というとこれが極めて少ないと言っていいが、考えなきゃいけないのは大きく2つ。電流の強さと、効果の持続性。


気になる電流の強さは微弱で、刺激している間は頭皮が「チクチク」する程度。しかも数分もすると何も感じなくなる人も多い。もっとも、dneuroもそうなのだが、一部に敏感な人はいて、そういう人は刺激中ずっとそのチクチク感ないしはピリピリした感じが続くため、快適とは言えず、終了後に何となく頭痛がしないでもない。これは電流の強さに依存し、1mAでは感じても0.75mAでは感じなかったりする。頭皮上の感覚と刺激による効果の関係については特に関係ないはず。


また、電極の大きさは、図のように通常大きめのパッドを用いる。図はドイツneuroConn社のものだが、通常サイズは5cmx7cm=35cm2の長方形。一方で小さいサイズは3cmx3cm=9cm2。この5cmx7cmという通常サイズは、小さな手のひらサイズ。結構大きい。


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同じ電流の強さなら、小さい電極のほうがピンポイントに強く脳に刺激を与えられるのでは?と考えた方、それは正しい。面積あたりの電流密度が大きくなる小さい電極のほうが脳を効率的に刺激する意味では利点がある。


大きい電極は電流が分散され、直下の脳刺激において必ずしも十分とは言えない。


それでも小さい電極を使わないのは、小さいとそれだけピンポイントに電流が流れるため、刺激も強くなり、不快感が増大し、場合によっては火傷もしかねないから。そのため、脳の刺激という面からは余り大きいサイズにはしたくないのだが、一定の妥協をしてのサイズということになる。


さて、効果の持続性という面はどうか?


もしtDCSが劇的に脳機能を変えてしまうとして、それがずーっと続くのは、良い影響ならいいかもしれないが、悪い影響がずっと続いてしまったら困るのでは??

それも今のところは余り考えなくていい。


というのも、効果は、tDCSで刺激している間か、終わってしばらくせいぜい数時間以内に限られているからだ。むしろ、どうやって効果を持続させるか、を実現させたいと考えている状況。


このことは、実験という限定された場では非常に有り難い。神経活動を抑制させるのは、説明を受ける立場として何となく脳機能を悪化させているのではと思いがちだが、その影響が一時的なら実験に参加しやすいだろう。


強い懸念は今のところ無いのは安心していい。


DC-STIMULATOR Plus


tDCS研究に使われている最もポピュラーな機械の1つ。ドイツneuroConn社のもの。およそ150万円。実を言うとtDCSは弱い直流電気刺激を与えるだけだから、乾電池を使って極めて安価に作成可能で、アメリカではDIYする学生が後を絶たないという。が、研究用に用いているのは刺激時間中の電流供給が極めて安定しており、信頼性が高く、様々な条件設定が可能。150万というと高い!と思われがちだが、医療機器としては安い方。でももっと安く良い機械が欲しいけどね…。



今月号の日経サイエンス。医療の話題は「胎盤の不思議」。胎盤というのは不思議な臓器で、母親から出来るのではなくて、胚(受精卵から発達したごく初期の個体)由来だから、母親にとっては異質な細胞の固まり(半分は父親の遺伝子)。なので、母親の免疫系がこれを取り除かないのは不思議。2015年にブラジルで流行し、妊婦が感染すると小頭症の子どもが多く生まれたジカウイルス感染。母親から胎児にどのようにウイルス感染が進むか現在研究中とのこと。本稿ではないが、母マウスは、妊娠し胎盤ができて胎児と共存するようになると一部の胎児細胞が脳に到達するという。人間も同じなら、出産後の女性は脳的にも出産前とは違う人間になっている。