優しい薬物療法を目指したい (2)

良い薬物療法はあなたに優しいはず
さて、良い薬物療法はある意味悪い薬物療法の裏返し。


正しい診断のもと、症状を緩和したり治すのに十分に効果を望める必要最低限の量、可能なら出来るだけ少ない種類を。定期的で、十分な副作用対策(副作用対策は薬だけとは限らない)。そして効果が発揮され、目的が達成された時に可能ならば減量もしくは中止する。


但し、言うは易しというやつで、現実にはスムーズに行かないこともある。良い薬物療法は実際には、医療者と患者双方の協力が不可欠で、出した薬の作用はそれが生活をしやすくしているのか、医療者の注意深いモニタリングと共に、患者側も医療側に伝えることをして欲しい。受療側は、介入手法の1つである薬物療法が、目的を達しているのか、改善させたのか、悪化させたのか、もしくは不変なのかを判定する必要がある。


「飲んでます?」と聞くと実は飲まずにいることも多かったりする。うん、結果が良ければそれでOK、怒ったりしませんよ。でも基本的には医者は出した薬は飲んでくれている、と思っているから、忘れたにしても、故意にしても、何を飲まなかったのか、は伝えて欲しい。そうでないと効果・副作用把握に誤解が生じるし、医療費の無駄遣いだ。もちろん、副作用が辛くて飲めませんでした、は殆どの場合しょうがない。*1合う、合わないはあるし、辛い副作用があるのに飲み続ける方も時にいらっしゃるが、頑張りすぎる前には主治医や処方医と相談して欲しい。


薬に抵抗はあるかもしれないけど…
前回冒頭に「時間制約のある現代精神医療の中では中心にならざるを得ない」と書いたけれども、薬物療法に後ろ向き、ということではない。
薬に抵抗を感じる、というその感覚は健康的だ。余分な異物は体内に取り入れたくない、そんな気持ちはとても良くわかる。


でも、正直症状に苦しみ抜いて自然の回復を待つ、のは余りに辛い時がある。服薬することで、眠れぬ夜が少なくなって疲労が回復し、死にたい気持ちから生きたいという気持ちに変わる、不安で外出もできない状態から安心して外出できる、そうなれるかどうか、まずは飲んでみてもいいだろうと思う。


副作用には、副作用が出ない量を使う、使う薬の種類を変える、副作用どめを使う、といった対策が取れる。


抵抗感だけで薬を飲まなかったり、とにかく少なくしたいと効かないような極小量を飲んだり、あれやこれやと感覚だけを頼りにした自己調節、は避けて欲しい。ただし、きちんと飲んでもらうための説明であったり、対応が医療側に必要であることも言うまでもない。やはり良い薬物療法は、両者の協力の上に成り立つものですよ。


dneuroは、困りごとはできるだけ良い方向に改善されていくべきと思うが、一方で「治療者」に依存して生きていく期間はできるだけ短い方がいいはずとも。医者にお世話になんて本来はならないほうがいいのだ。薬物療法は、丁寧に、正しい方向でやれば、受ける側の自己治癒力を邪魔せず、かつ他の治療法以上に自立を促し、医療者無しに過ごす自分なりのやり方を身につける生き方につながるものだと考えている。


カウンセリングは理想?
薬物療法に抵抗感がある方には、精神科に来たらカウンセリングとイメージを持っているのかなと思う。そう、カウンセリングなり、精神療法が理想なのか?という問いには、疾患や症状(要するに困りごと)、年齢、状況によっては、と答えたい。
まずは、提供されるカウンセリングが相談者にとって良くなる方向において正しいとしても、それを受け入れる脳の条件が整っていることが必要。つまり、幻覚・妄想、興奮や不安・焦燥感が強すぎたりする中では言葉が入っていかず、まずは薬で脳を落ち着ける必要があるだろう。
さらに、困りごとに、破綻した人間関係や明らかにおかしい職場環境、ないしは全く能力とマッチしない仕事をしている、といったことが関連しているなら、それをどうにかせずに薬物療法もカウンセリング(精神療法)も効力を持たないだろうと思う。環境改変させるのはカウンセリングだけでなく、薬物療法だって話しながらそれをしてもらっていきますよ。


また、ここでは詳述を避けるが、例えば精神分析はdneuro的には治療行為とは到底思えないし、間違った、というか方向性の誤った精神療法は時に薬物療法以上に副作用をもたらしかねない。*2


ところで、今流行りの認知行動療法も、訓練を受けていない治療者では効果を発揮し得ない。効きやすく、薬物よりも効果を発揮する疾患(例えば、単一の恐怖症、強迫性障害パニック障害)がある一方で、認知行動療法だけでは治療が困難な疾患(例えば、統合失調症双極性障害)がある。昨今の流行で、「認知行動療法が最後の砦」的意識を持っている医療者・患者がいるが、万能でないのは他の治療法と同じです。


うつと不安の認知療法練習帳

うつと不安の認知療法練習帳

本を読むのが苦手でない人で、認知行動療法に興味のある方にはこの本を一押ししている。アメリカはやはり自分で何とかする、というためにワークブックが良く出来ている。本書は認知行動療法入門にもなるし、不適応な思考がどんなプロセスで出来上がっているのか、わかりやすい。


ではいずれは内科疾患になるのか?
精神科医としてしばらくが過ぎた頃、小児科の同期と話していたら、「あ、結局そうなんだ。でもいずれは内科の仕事になるってことかい?」と言われたのを思い出す。確かに、病因が解明され、根本治療がされたら、検査と治療法が一体となり、精神科医の武器である詳細な問診による診断、という技術が不要になる可能性は高い。そうなれば理想的とも思えるが、研究者視点でそれがあと数十年単位で可能とは到底思えない。以前も書いたが(⇛精神疾患って原因あるの?)、精神疾患の原因、すなわち原因遺伝子保持からその発現が疾患に至るまでの身体内での発展メカニズムは絶望的なまでにわかっていない。*3内科の仕事になるのはまだ当分先だ。

*1:辛い副作用があったとき、とりあえず服薬を止めてほしいと思う。精神科においては特別な場合(急性の興奮時や感染症膠原病など身体疾患による精神症状治療時)を除けば、まず大体は一旦止めても大丈夫。副作用の中には危ないものもあるのだからひどい副作用があると感じたなら、とりあえず止めてからまた相談して欲しい。

*2:実を言うと精神科医になって精神医療に不信感を覚えたのは、精神分析治療のカンファに出たときだ。正直それはあなたの感想じゃないの?という医師側の言葉や、分析上級者たちが具体的な言葉もなく相互理解しているのがまずは気持ち悪かった。さらに、言葉による治療に頼る(はずの)分析上級者たちの薬物療法が多剤併用大量であることが多く、副作用に無頓着なことにショックを受けた。単に私の接した方々が悪かったのだという可能性はあるけれど、今に至るまで不信感を払拭しきれてはいない。また、精神療法というわけではないが、しかし類似のものとして危険性が高いのが「洗脳」だろう。

*3:よく「統合失調症の原因遺伝子が判明」みたいな記事が踊ることもあるが、全てウソ、まあそれは言い過ぎにしても、その研究者が解析した範囲内で原因の1つになり得る結果が得られた、程度の解釈が正しいものばかり。真の原因究明はまだまだ先の話。

優しい薬物療法を目指したい(1)

精神科や心療内科に訪れた方が時々口にするのが、「カウンセリングじゃ駄目なんですか?」という問いで、その言葉を聞く度に、精神科というイメージが持つ誤解や、時間制約のある現代精神医療の中では薬物療法が中心にならざるを得ないことや、名医と言わずとも良医ではありたいと思っているdneuro自身の力不足など思い浮かぶ。…とはいえ、精神科医療に薬物医療は必要であり、でもそれは優しいものであるべきとは考えている。


優しい薬物療法が基本的には必要と考えている
前に書いたように、薬は病気からの自己治癒力を支える杖のようなもの、と考えるといいのではと。


  薬について


薬物療法は本質的治療といえないが、良い杖は生活を支えてくれるはずだ。
薬なんかに頼りたくない、という気持ちはわかるけれども、骨折してギプスで固めた足があるときに、松葉杖頼らないで暮らして生活圏が狭まっては勿体無いでしょう?


ちなみに、病気の根源を絶つ、というのを本質的医療というなら、多くの病気で実はそんなに根源的治療にはなっていない。糖尿病、高血圧、高脂血症、各種心臓疾患、がん、多くの病気がどのように引き起こされるか解明が進んでいるが、だからといって原因療法ができるとも限らないのだ。


良い薬物療法、悪い薬物療法
悪いほうが考えやすい。

誤診、病態に合わない量、同じ薬理メカニズムの薬の重複、副作用が強いのに使い続ける、効果がないのに漫然と続けている…


診療において誤診は実は少なくない。診断に沿った薬が使われなければそもそも薬は効かない。そんなことあるの?という疑問も持たれるかもしれないが、ある程度治療行為による介入が進んで初めてわかることもあったりはする。診断的使用という言葉があるくらいだ。


病態に合っていない多い量が強い副作用に繋がりかねないのは当然。でも実は、少なすぎるのに、効かないという判断を早くしすぎてしまうこともある。細菌をやっつける抗生剤で考えてみるとわかりやすいが、一定量の細菌群を殺すためには、それなりの強さの薬を使う必要があるのだ。弱い、病態を改善させるのに不十分な量の薬を漫然と使ったって改善するはずがなく、またきちんと判定できないのにその薬を諦めてしまうのは勿体無い。薬は少なければ少ないほどいいのではなく、病態改善に十分な必要最低量が望ましい。


同じメカニズムの重複は精神科医療の暗い歴史の中に歴然とある。今もそれは反省すべき現象で、以前統合失調症が適正化するかという話題で書いてみた。


平成28年度診療報酬改定は精神科における多剤併用大量療法を駆逐するか?


同じメカニズムの薬をいくら重複させても、基本的には意味がない。例えば抗うつ薬SSRIに属する、パキシル(一般名:パロキセチン)とジェイゾロフト(セルトラリン)を一緒に服用したって、同じセロトニン再取り込み阻害作用が発揮されるだけなので、2種類使うよりは、パキシル最高量、ジェイゾロフト最高量という単独の最高用量までtryしてから切り替えるのが標準的なのであって、重複使用はどちらが効いたのかもわからず、また副作用が複雑になる。実際の所、効果発揮メカニズムは同じでも、薬によって若干構造の違いがあることが、効きめの個人差や副作用の出方(こういった特徴をプロフィールと呼ぶ)に差が出てくるものなので、重複使用は事態を混乱させてしまう。とはいえ、状況によっては選択肢としてはありうるので、あくまでも基本的スタンスだが。


副作用が強いのに使い続けることもよく見られる(もちろんそうでないように努めているつもりですが)。精神医療においては、一旦処方してそのまま、病態回復しても使用続けた時、そしてお節介な副作用どめ使用、という形が多いのではないかと。


例えば、気分変動が続くので、最初に処方した抗うつ薬ジェイゾロフトに加え、感情安定薬リーマス(炭酸リチウム)を加える…まではいい。でもそのリーマスが効果なかったと判定したのに続けながら別な感情安定薬であるデパケン(バルプロ酸)まで加えて経過を見たら、それは出しすぎというもの。効果を発揮させるために加えた薬は、なんとなくそのまま使ってしまいがちなので、戒めたい。患者さん側も、減らすのが不安だからそのままのほうがいいです、という方がいたりする。


また、大体が、効果を発揮させたいときには、それが効くべき病態があるので薬がちょうどよく働き、副作用が出ないことが多い。一方改善してきたら効くべき病態が無いので、効果そのものが副作用になることもある。例えば抗不安薬は不安を鎮めるが、不安でないのに使えば眠くなったり集中力を落とす。必要なくなったら薬は減量すべきだ。


そして、dneuroが医師になりたての頃、副作用どめは最初っから入れておくべきと習ったが、今その発想は基本的にはしない。なにせ、副作用どめも薬である以上副作用があるのだ。効果を狙う薬の副作用が出るかどうかもわからないうちから、副作用の可能性だけ増大させても益は無い。


効果が無いのに漫然と使用。*1抗うつ薬抗不安薬睡眠薬で顕著に目立つ。とりわけ症状が重い時に効果があった薬を減量したり、やめるのは医療者側にとっても患者側にとっても勇気がいることが多い。
でも、そもそも医療なんて必要ないに越したことはないのだ。
十分に回復したら、必要ない医療から脱出を図るべき。


ところで、認知症についての講演で必出の質問がある。
アルツハイマー認知症の初期にしかアリセプトは効かないといいますが、もう5年も出ています。効果はあるのでしょうか?」
もちろん、個人差はある。もしかしたらアリセプトの持つ興奮作用がいい方向に働いているかもしれない。でも大抵の場合において、アルツハイマー認知症が発症して5年も経ったらもうアリセプトは何も効果を発揮していないはず。医療コスト的にも良くないよね…。MRさんは使っているから有り難いと思うでしょうが、きちんと助言してね、と思う。


精神科の薬がわかる本 第3版

精神科の薬がわかる本 第3版

改めて見てもこの本はわかりやすくて良いと思う。
ADHDに使う薬については簡単過ぎるが、それ以外は概ねわかりやすい。これを読めば自分の治療薬の把握と、医師への質問もしやすくなるだろうと。


白い巨塔〈第1巻〉 (新潮文庫)

白い巨塔〈第1巻〉 (新潮文庫)

上述の誤診したら薬は効かない、に絡んで。山崎豊子の「白い巨塔」は、浪速大学医学部第1外科助教授(今なら准教授か)である財前五郎が教授目指して策謀巡らせる話。その中で財前が、潔癖な親友里見に対して「なあ、〇〇大学の元教授が自分の誤診率は3割だったと言ったそうだ。医師仲間はそれだけかと驚き、普通の人はそんなにか、と驚いたと言う。それほどまでに意識は違うものなんだよ」と諭すシーンがあった(正確な引用じゃないです)。実際誤診は珍しいものではなく、それは様々な要因が絡むけれども、大事なのは早くそれに気づき、わかったならすぐに対処するということだと思う。「後医は名医」という言葉があり、前の医師がしたこと、というのは何かしらの結果が伴うので、次の医者は多くの情報を持った状態で診断・治療にあたられる。次の医者が名医だから診断できたというわけではないことも多いのだ。
ちなみに、「白い巨塔」で中心となる教授選、少なくてもdneuroの知る限り、今の教授選はすごいクリーンですよ。

*1:効果が無いのに漫然と処方、は精神科だけでは勿論無い。急性期に対してもそうだが、日本の医者が薬を使いすぎ、患者が薬を求めすぎ、なのは明らかで、意味がない処方が正直多すぎる。風邪を引いたら抗生剤、咳止め、去痰薬、複合剤がかなりな量出されると思うし、高血圧、高脂血症、糖尿病などに対する薬も一度始めたら止められない神話が利きすぎているように感じる。さらに効果の無い漢方薬治療が漫然と続けられることもあり、使うからには効果検証が個人レベルでも行われるべきと思う。

知って面白い医学史

医学史は面白い。それは不謹慎だが人体実験の歴史だし、今から見るとまさかそんなことを権威じみた偉い人達が言っていたんだ、と当然こちらは後出しじゃんけんなのでずるいのだが、正しい治療に至るまで苦闘の歴史が偲ばれるというのもあるのかもしれない。


世にも奇妙な人体実験の歴史

世にも奇妙な人体実験の歴史


先日、「飲んだ、治った、効いた」の判断には注意しなくてはいけないと書いたけれど、治ったという判断ではなくて、飲んで病気になった、という判断の方も怪しいことはある。正しい例外は、胃潰瘍胃がんの原因になるヘリコバクターピロリ菌で、オーストラリアのバニー・マーシャルが自ら飲み込んだ10日後に胃潰瘍を発症したことが決め手になった。医学史上、非人道的な人体実験がされていたことを理由に今では医学実験(治験)は大変面倒な倫理検査と、同意手続きを経て行われるが、マーシャルさんは「同意できるほど十分に説明を受けている人間は、私しかいなかったから」と自らを実験台にした理由を言う。マーシャルは2005年にノーベル賞を取って報われたけれども、自己を対象に報われない人体実験をした医師・研究者は沢山いらっしゃる。


本書の第1章の主人公は18世紀のロンドンの外科医、ジョン・ハンター。外科医の教育には遺体の解剖が不可欠と考え(それ自体は正しい)、そのために沢山の遺体を確保すべく墓泥棒とも結託したらしい(当時は献体という制度がないので…)。さらに、今もそうだがもっともポピュラーな性感染症の1つである淋病と、流行復活の兆しの見える梅毒は、18世紀同じ病気と考えられていた。1767年、ハンターは淋病患者の膿を自らの性器にこすりつけ、その淋病患者が偶然梅毒にも感染していたために両方に感染した。多分、彼は同じ病気と誤解したままだったはず。もしこんなハンター先生の奇人ぶりを知りたければこの本がいいらしい。

解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯 (河出文庫)

解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯 (河出文庫)

内容はこの方のblogに詳述されてしまっているけれども。
   解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯



ところで、もちろん、今やっている治療が正しい、と決めつけるのは傲慢で、現在も20年後から見れば歴史であることを考えると、多分間違っていることも沢山やっている。でも、間違いや行き過ぎ、は今はわからない。そんな中でも例えば、抗がん剤治療は、ほんの10年前から見て今は随分と副作用に配慮されてきているように思う。近藤誠氏の「ガンと戦うな」は、氏の「結果から見てしかわからないがんもどき」理論を受け入れがたいのだが、それでも当時主流派のひたすらガン縮小が大事的発想に対して疑念は呈してくれた。主流・潮流になっている医療は時に病気を叩くことに行き過ぎになってしまう。でもその揺れ戻しが来て、というのを繰り返し、次第に結局何が大切なのか、を熟考できるようになる気がする。ガンだけでなく、高血圧しかり、高脂血症しかり、征服するだけが医療の発展ではないのだ。もちろん精神科も同様であって、統合失調症の治療に関してはようやくゴールを病気の軽快以外の点に置く発想が定着してきたように思う。


とはいえ、これまでこのblogで述べてきたように、主流派であり標準的な医療は、基本的には膨大な実験やダブル・ブラインドの治験を経ており、それを頭ごなしに否定してしまうのはおかしいことがほとんどだ。dneuroは治療で漢方も使うし、何しろ学生時代東洋医学研究会の部長だったので、別に漢方否定派じゃないんだが(⇛漢方って何だ?)、時に漢方絶対派の方に遭遇するとげんなりする。日本では、江戸時代末期まで、人の想像をベースにした東洋医学(当時は東洋なんてつけないけどさ)が全てであり、物理的存在を対象とした実証主義で無かったし、天然痘ワクチンとなる種痘の普及をどれだけ当時の主流派である漢方医たちが邪魔したのか知らないの?と問いたくなる。頼むから福井藩の町医者、笠原良策の決死の努力を知ってくれ。

雪の花 (新潮文庫)

雪の花 (新潮文庫)


ところで、先日紹介した「外科の夜明け」はさらっと内容を読めるのだが、実は作者トールワルドの原著の大幅な抄訳。完訳版はこちら。

近代医学のあけぼの―外科医の世紀

近代医学のあけぼの―外科医の世紀

この人は医学史を、作中主人公が、医学史を発展させた医師たちの同時代人として生き、その発展を見て、体験していくドキュメンタリー仕立てとして書いている。
胃がんの手術といえば、ビルロート法(第1法と2法がある)という胃の摘出術があるのだが、手術法が開発された当時、外科手術そのものが冒険だった。主人公は若き妻に何とか手術を受けさせるよう奔走するのだが、結果的に妻は受け入れず死んでしまう。
外科医になりたい人は是非この本を読んで気持ちを高ぶらせ、外科医に憧れる人はこの本で疑似体験を。

外科の夜明け―防腐法 絶対死からの解放 (地球人ライブラリー)

外科の夜明け―防腐法 絶対死からの解放 (地球人ライブラリー)

医学生は将来ダークサイドに落ちないでね(2)

部活も大事だが、思考法もちょっと磨いてみて欲しい。*1


ダークサイド、というと悪いことを自覚的にしているようにも思えるが、実際には効かない医療を信じ込んでしまっている場合があったりする。

自分の経験や、「独自の研究」から導いた結論を信じ込んでしまっている先生方もいて、そういった先生方は、元は善意なものだから、訂正しようが無い。このblogでこれとか、それとか、おかしいよと言うのも、本人が良いと信じてやっているなら名誉毀損で訴えられそうでし辛いものがある。


ヒトの脳の癖を知ろう
ヒトの脳というのはとにかく騙されやすいってことに自覚的になると少しはおかしな理論に対して免疫ができるんじゃないかな〜とこの数年思うのです。


人がどうしようもなく「信じたがる脳」を持っているその理由のキーワードが、バイアス


ヒューリスティクス
数多くあるバイアス、つまり思考上の偏り、思い込みの中でも誰もが日常的に行っている行動がこれ。

何かって言えば、「必ず正しい答えが導けるわけではないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることが出来る方法」のこと。ヒトだけじゃなくて動物だってそうなんだが、生きていくための情報判断の基本戦略だ。例えば、トラの生息域で、ヤブの向こうに隠れ見える縦縞を見た時に、
1. トラ 2. トラに似た模様の倒木
どっちと考える?と聞けば普通は1でしょう。
2だと思ってモタモタしていたら命が幾つあっても足りないわけで、確実性には劣るが、確実であることを待つわけには行かない状況では極めて有効に働くことが多い。


答えの精度は保証されないが、回答に至る時間が短くて済むのだ。


人も動物もヒューリスティックに物事を捉えるので簡単に無関係なものを関係があると思い込む。「雨乞い」なんて典型的だろう。日照りが続いて続いてもう限界というところで雨乞いをすれば、そろそろ雨が降る確率が高いわけだが、「雨乞いが雨を招いた」と結論付けるから、次の日照りからは雨乞いをするのだ。



我々はバイアスの中に生きている
日常自分がどれだけ偏見に基づいて物事を判断しているか考えてみて欲しい。
例えば「少年犯罪は激増している」なんて言葉を聞くともっともらしく思えたりする。だって、ワイドショーではしょっちゅう凶悪な少年犯罪を特集してるし、多いからこそ厳罰化なんて話が出てるんでしょう?と。
ところが、実際には現代は戦後最低の少年犯罪数で推移しており、率も低い(⇛
犯罪件数・少年犯罪が史上最少更新 「犯罪激増」と言うマスコミの謎)。
ついでに興味のある人は警察庁の統計を⇛少年非行情勢(pdf)
なのに、多い、と感じてしまうのは、メディアの発達と少ないからこその報道の多さとその詳しさで勘違いしてしまうのだ。
こういう、情報によって思い出しやすい考えが出来てしまってそれに基づく判断してしまうのを「利用可能性バイアス」という。
(ヒューリスティックな決めつけは利用可能性バイアスの1つだ)


その他にも以下のようなバイアスがある。
・後知恵バイアス: あの検査をしていれば助かったはず、という医療過誤への発展。
・代表性バイアス: 白衣を着ている女性は看護師。
・平均への回帰: 2年目のジンクス…本来の実力は1年目の神ってるようなもんじゃないのよと。確変でテスト100点取ることもあろう。
・ギャンブラーの誤謬: コイントスで続けて4回裏だったから次は表じゃないかな(確率はその都度1/2なのに…)
・アンカリング効果: 同じ犯罪でも、求刑が4年と7年では、判決結果が異なってしまう。


医学生として取るべき姿勢
何かしらもっともらしそうな言説を聞いた時に、君らの取るべきdneuro的姿勢は以下だ。*2


・提供もしくは引用されたデータや文章、言葉を鵜呑みにしない: オリジナル文献を読んで裏とりをしよう。メディアはしばしば論文内容を誤解、曲解し、時に論文で言及されていないことまで言ってしまう。
・権威を無批判に信じない: 医学も科学である(べき)以上、権威の言うことであっても盲信してはいけない。批判的吟味をしよう。
・数字にだまされない; 統計データだからと無批判に受け入れてはいけない。有意差があっても、臨床的に意味のない結果は数多く、また相関は得てして因果と勘違いされる。
・ある説を受け入れたら次にそれを疑う(信じるまでに一旦留保する): すげえと一瞬思っても、すぐに検証しよう。その説は得てして期待はずれだから最初に信じ込まないようにしよう。信じてしまうとアンカリング効果が働いて訂正しづらくなる。
・きれい過ぎるデータはまず嘘だと思え: 医学の結果は複雑な人間の生理を経た曖昧な結果であることが多い。あんまりキレイな曲線がグラフに描かれていたらむしろ疑おう。
・「絶対…」「必ず…」「…の可能性は無い」も仮説: 強い口調は疑ったほうがいい。何ごとも例外があるものだ。


クリティカルシンキング (入門篇)

クリティカルシンキング (入門篇)

論理的思考ができたからといって、必ずしも科学的思考ができるわけではないのだけど、でもこういった本でトレーニングを一度はしてみてもいいのでは。dneuro的に尊敬するのは、必ずしも論理的思考を経ていないのに、ナチュラルに科学的に妥当な結論を出してしまえる人だが、まあ凡人はきちんと思考しないと得てして間違う。ので、せめてこの本でも。



飲んで治ったら効いた、は疑え

「私も最初は疑っていたんですが、何ごとも自分で体験しなければいけないと思って具合の悪い時に飲んでみたんです。そしたら、ほんとに効くじゃありませんか!もうこれは興奮してしまって、外来の患者さんにも機会があれば飲んでもらったんですが、本当に劇的に効くんです。」


熱烈な漢方支持者や、ホメオパスとなった医師からこんな言葉や文章を聞いたり見たりすることがある。*3
実際こういう、「最初は疑念を持っていたのに、その効果を自ら納得できた専門家」の言葉はもっともらしく聞こえ、いかにも信頼が置けそうだ。

でもね、それで効果を判定してはいけないんですよ。二重盲検試験を経なければ、それはその人の個人的体験にすぎない。素人じゃないのだから…。
飲むときには、効いたらいいなという期待値が働く。そして尚素晴らしいことに、飲んだ後何であれ症状は緩和されることが多いが、それは自然経過と区別がつかない。
患者に投与しても効いたんですよ、という反論には、そもそもあなたが「効きそうに思う」患者に対して「効くんですよ〜」といって薬を出したら、それはもうプラセボ効果出しまくりというもんだ。砂糖玉だって効くだろう(ホメオパシーはまさにそうですね)。
ほんとーに効果を論じるのならば、「飲んだ、治った、効いた!」の3た法(高橋晄正)になっていないか強く戒めるべきだ。*4



医学史を知ろう
医学の歴史は間違いの歴史。
先人の医家はもーのすごい間違いを繰り返してきて、科学性を基盤とした権威への挑戦者が正してきた。

ギリシャ医学の医の倫理「ヒポクラテスの誓い」で有名なヒポクラテスは立派な医師だったけど、当時の医学は解剖を基礎としていないから、人体構造も生理学も発展しておらず、人間の身体は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つの体液の調和で健康が保たれているという思想だったし、その「想像」は何世紀にも渡り欧州では真実だった。


欧米には、「瀉血」が流行った時代がある。発祥はギリシャだが、瀉血は一時はどんな病気にも効く中心的医療となって、瀉血のためのヒルが使われたりした。もちろん血を抜くことは、限定的な条件下を除けば、身体に負担を強いてしまう行為で、治療どころか病気を悪化させてしまう。アメリカ建国の父、ジョージ・ワシントンは、倒れた時に大量の瀉血療法を受け(2リットル近い血液が抜かれたらしい)、まあそれで殺されたようなものだ。


正統医学(多くの医師が正しいと認識している一般的な医学)は、かつては権威の説(想像)に盲従していることが多く、数多くの間違いを繰り返した。しかし、治療法の検証に、二重盲検試験のようなバイアスを排除した厳密な臨床試験を用いることが一般的になってようやく現代医学は殆どの場合において信頼に足りるものに発展している。


間違いを科学的手法で正してきた医学史の歴史を学ぶと、同じ間違いを自分がしていないか、自分自身を検証可能になる、と思う。



陽だまりの樹 (1) (小学館文庫)

陽だまりの樹 (1) (小学館文庫)

自身も大阪大医学部出身の医師であった漫画家手塚治虫の大傑作。手塚治虫の曽祖父手塚良庵は江戸末期から明治初期に生きた蘭方医で、当時著名な蘭方医であった緒方洪庵の弟子でもあった。緒方洪庵適塾にて福沢諭吉をはじめ優れた志士を育てただけでなく、天然痘ワクチンを種痘所を開設して普及させた偉人。種痘を普及させる際には、天然痘のかさぶたの粉末を植え付けることへの人々の拒否感が大変だった上に、当時大権威であった漢方医たちと激しく対立に巻きこまれた。効果のある治療法でそれを実践で証明したとしても、権威的学説に対抗するのは如何に大変か、も描かれている。


外科の夜明け―防腐法 絶対死からの解放 (地球人ライブラリー)

外科の夜明け―防腐法 絶対死からの解放 (地球人ライブラリー)

今、感染症を防ぐもっとも適切な手段は、清潔を保つこと、であることに疑いを持つ人はいない。ハンガリー人でオーストリアの病院に勤務したセンメルヴェイスが暮らした19世紀半ば、は病院出産で死を迎える妊婦が後を絶たなかった。実に自宅分娩の死亡率の10倍にもなっていたから、出産する場として病院は危なかったし、かのナイチンゲールも自宅分娩を勧めていたほどだ。センメルヴェイスは出産介助時に医師が塩素水による手指洗浄を行うことで死亡率を格段に低下させることを示していたが、「医師が妊婦を殺している」という事実が当時の権威に受け入れられず、不遇の死を遂げたのは気の毒でならない。

ちなみにこの本は、消毒法と麻酔法の歴史を軸に、外科学の歴史が書かれているが、読む人は選ぶ。昔の手術描写はグロいのだ。医学生なら必読。

*1:ご存知の方もいると思うが、医学部生はほんとに部活ばかりしている。それまで部活動を出来ていなかった反動からか、朝から晩までとにかく運動部活動に勤しむ学生は多い。dneuroだって医学部生時代の中心は部活だったし、そこで彼女も出来たし、今も有り難い先輩後輩関係がある。でも教員の立場で学生を見てると、現代医学の実践に必要な知識量を考えたとき、もう少しばかり勉強してほしいなあとは愚痴りたい。

*2:書いてて思うがジャーナリズムの基本と重なるのでは。メディアの科学記事が全然裏取っていないのを見る機会が多く残念なのだが。

*3:感覚、は勿論大事。でもそれは「自分の」感覚であって、普遍ではない謙虚さを持つ必要はあるでしょう、と思う。尊敬していた先輩医師がホメオパスになった時、非常に悲しかったのを思い出す。

*4:高橋晄正氏は東大物療内科の医師だった。一時もてはやされたアリナミンの薬効に疑念を抱いたことで有名。市民運動家でもある。dneuroは氏の活動全てに賛成するわけではないけど、飲んで、治って、効いたと判断する危険性については氏の著作で頭に焼き付いた。

医学生は将来ダークサイドに落ちないでね

研究者の中で気の置けない仲間と話していると、時折「あぁあの人はダークサイドに落ちたね」と語ることがある。
それが他のグループでもそうなのかはわからないが、分かる人はわかると思う。

ダークサイドに落ちるとはなに?と疑問抱くかと思うが、我々の仲間内では凡そ以下のような場合が当てはまる。


1.誤っている可能性が高いことを正しいことのように発信する。
2.確定していない学説や俗説を、証明されたかのようにパブリックな場で断言する。


医者の場合は、その行為(医療行為)に影響力が強く、また誤用や悪用で金儲けができてしまうため、ダークサイドに落ちる罪は大きい。


ちなみに、ここでいう正誤の判断は、現在入手できる科学的根拠(エビデンス)に依拠している。


ただ、何が正しいか、というのは厳密には難しくて、信頼の高い学術雑誌(NatureやScienceを筆頭とする科学誌のことです)これまでに積み上がった証拠から恐らくは本当だろうという推測が十分に成り立っている仮説(例えば恐竜の絶滅にはユカタン半島に落ちた巨大な隕石が関係している、とか)などあるわけだが、記憶にまだ新しい小保方さんのSTAP細胞騒動とか、論文捏造で話題になった降圧薬ディオバンの事件などがあるわけで、権威だから絶対的でないというのもある。



ダークサイド医療ってなんだ
定義は難しいけれども、


エビデンスがまだ確立されていないものを、さも確立されたかのように患者(読み手、聞き手)へ情報提供し、実際に医療行為(保険・自費問わず)を行うこと


かな。


以前疑似医学入門という記事を書いたが、そこに挙げたように具体的なキーワードは例えば以下だ(再掲)。


ホメオパシーマイナスイオン手当て療法(気の注入)、高濃度酸素水、活性水素水、バイオリズム、ゲーム脳酵素療法、がん免疫療法、EM菌…


この中には、え?それって何らかの根拠があるんじゃないの?と思うのもあると思う。


例えばホメオパシーは、日本ホメオパシー医学協会(JAHMA)といったいかにも根拠持って実践していそうな団体まであるので、科学的根拠があると誤解されやすい。だけど、JAHMA自体が認めているように、「効く」根拠は「科学的に証明されていない」(ホメオパシーとは)。認めていないのに、効果をうたえるというのは謎としか思えない。


あれ、がん免疫療法はどうなの?と言う人もいるかもしれない。そう、つい最近話題になっているオプシーボ、あれ免疫療法じゃないの?と思う人は鋭いが、今回話題にするものとは全く違うもの。


喧伝された免疫療法は、人が自然に持っていて、がん細胞を見つけて殺すというナチュラルキラー細胞(NK細胞)を個人から抽出し、それを何らかの処置によって活性化・増殖させてまた取ってきた本人に戻すことでガンをやっつけるという形で沢山の診療所が自費で行っていた(いる?)。


実はdneuroが初めてそれを知ったのは医学部に入学した年(20年以上前だ)で、NHKで紹介された番組だった。採取した血液に、幾つかの漢方薬ブレンドしたものを振りかけて活性化させ、それを戻すことで末期がんの方も助かるという。


既に医学部に入学していたので、こんな凄い治療を将来習うのかと胸踊らせたし本も読んだが、待てど暮せどそんなことは習わない。まだ未確立だからかと何となく納得していたものの、いくら待っても同種の「免疫療法」がちゃんと紹介されることは今に至るまで無く、結局理論的期待だけの、カッコつきの治療行為でしか無いことがわかった。本当に効果がある治療を学会が放っておくというのはまずあり得ないことだ。それに効きめがあるとわからない、有効・無効の指標になる数字が示されていないところが殆どで、それに賭けるには余りに高すぎるんですよ、正直。最後の賭けに投資してどのくらいの方が失意を抱いたのか知りたい。ガンで死んだ親父にやってみる気にもならなかったのは言うまでもない。



上記気をつけるべきキーワードの他のは説明するまでもなく全てまやかしだが、水素水に関してはこの間国民生活センターから解析結果出ましたね。


でも更に付け加えると、
にんにく注射、プラセンタ、点滴療法、グルタチオン点滴といったのをうたっているのは、全て金儲け狙い。まあ納得づくのニーズがあるならしょうがないかもしれませんが…。



我が精神科領域ではどうだろう
精神科医療は、かつて学生運動華やかなりし頃は医療自体否定されることもあったようだが、現代では形を変えて、「薬物療法は悪だ」と声高に叫ぶ人(医師も!)、雑誌が出てきているし、それについての批判は以前書いた(⇛週刊現代の医学批判を考える)。


最近罪が重いと感じるのは、これまた以前書いたNIRS(光トポグラフィー検査)に関して、何だか広告が増えてきたことで、うつ病診断の決め手みたいに宣伝している医院もあるが、根拠レスなのは以前書いた通り。


光でうつが診断できる? ちょっとそれはという問題 (1)
光でうつが診断できる? ちょっとそれはという問題 (2)


NIRSに関しては最近日本うつ病学会も、安易なNIRS検査に意義が無いことを声明として発表している。

双極性障害およびうつ病の診断における光トポグラフィー検査の意義についての声明


ただ、なんというか、dneuro的には以前書いた通りどんなに注意深くやっても少なくてもうつ病の診断には意味を感じないので、保険適応になったこと自体が誤っていると感じる。私のクリニックで出来ないこともないが、うつ病双極性障害診断目的にはやりませんよ。


他にセロトニン濃度測定でうつ病の重症度診断、なんてのも似たようなもんだ。


それにしてもなんでまたダークサイドに落ちる医者が後を絶たないのか...
ある意味、わざと、意識的に、金儲けのためにやっているのであれば、おかしなこと、間違っていることはわかっているわけで、むしろ心配は、ビリーバーさんになっていること。その背景には医学部で科学的思考が身につかないことにある。



捏造の科学者 STAP細胞事件

捏造の科学者 STAP細胞事件

STAP細胞騒動をめぐる、毎日記者の書いた本。以前も紹介したが、未だに小保方さんビリーバーの人が結構いるのは、あの外見から嘘(よく言って誤解)が出てくるのは信じたくない心性が働くからか。笹井教授は同じ男として気の毒と思う面もあるが、あの遺書は罪深い。



論文捏造 (中公新書ラクレ)

論文捏造 (中公新書ラクレ)

  • 作者:村松 秀
  • 発売日: 2006/09/01
  • メディア: 新書
この本の主人公というべきか、ドイツ人物理学者ヘンドリック・シェーンは短期間に次々とサイエンス誌やネイチャー誌に論文を載せ、一躍ヒーローになったが一転全部捏造だったことが発覚した偽論文著者だ。その嘘が発覚していく過程は不謹慎だがスリリングで、正直興奮するくらい面白い。NHKの放送はYouTubeで探したらあったのでそちらも是非。

綾野さんと認知症の記憶について

綾野さんは手強かった


綾野さんはアルツハイマー認知症。大正生まれ。
dneuroは老人ホームの嘱託医なのだが、入居した方にはまずは何か精神・神経的な問題を抱えていないかを診察する。


綾野さんの診察時、看護師からの依頼があった。
「とにかく頑固で、爪も切らせてもらえないのでなんとか説得してくれないか」
そんなわけで、自分としては説得するぞという強い気概を持って初診察に臨み、話をして数分、看護師が手を焼くに十分な「突破力」をお持ちの方だと思い知らされる。


「綾野さん、爪切りましょうよ」と私。
「切りません!」とは綾野さん。
「でもね、爪切らないとゴミが入ったりして不潔だし、身体傷つけちゃいますよ」
「何言ってるの、あんた。私はね、爪の間にゴミを挟むような汚いことはしていないし、身体を傷つけるような間抜けでもないんですよ!」
「いやそうはいってもね、やはり危ないし…」
「わたしゃね、自分の意志でこの爪を伸ばしているんだし、それで悪いことも起こしていないわけ。そういう自由が私に無いとでもいうわけ??」


ここまで言われて、個人の自由を尊重する崇高な人権意識が無いわけではない身としては屈服せざるを得ない。
「いや、そうではないですよ……わかりました…」
看護師から怒られたことは言うまでもない。
後日機嫌のいい時にベテランの介護士が同意を得てささっと切ったという。



さて、そんな綾野さんとは2週間に1度の診察機会があった。綾野さんの人生は波瀾万丈で、職業的意識を越えて聞いているのが楽しかった。
戦前に2度の結婚と2年以内の離婚、それぞれ娘を1人設けているのは珍しいのではないか。そして戦後にもう1回最後の結婚。3人目のご夫君が亡くなって後、ホームに入居となった。

ある日は3度も結婚した綾野さんに結婚について聞いてみた。
「結婚に値する男はいなかったねえ…」
「最後のね、やつはずっと私に惚れていたんだよ。だから一緒になってやったんだ」*1


レクリエーションとして来たフラダンスサークルの方々の公演には行かないというので理由を聞いてみる。
「あんなニセモノには行かないよ!」


本は好き、というのだが理解力が下がってきたこともあり、雑誌を勧めてみる。
「雑誌はくだらないから読まない」


毒舌の綾野さんには、スタッフも手を焼きつつ親しみを感じていたようだったが、入居3年、心不全を患い、いよいよ死期も近いのかなぁという日に会いに行く。いよいよ元気もないかと思いつつベッドに近づいたとき。
「また来た?120歳まで生きる権利があるけど、権利は行使出来ると限らないからね」
帰り際、綾野さん、またね、と挨拶すれば「また、はくさいから嫌だね」


綾野さんは2009年5月14日7時49分肺炎で死去。享年89歳。


覚えていたかは怪しいけれど…
綾野さんには、明らかに記憶障害があり、正直私の顔を覚えていたかは疑問だ。それでも、当意即妙の受け答え、皮肉の聞いた言い回し、そして悪戯っ子のようなチャーミングな表情は認知症そのものが進んだ晩年になっても衰えることはなかった。
認知症だからその人の認知機能が全て衰えるものではないのだ。


ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯

ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯

H.M氏というイニシャルで神経学の教科書に必ず出てくる方がいる。本名はヘンリー・グスタフ・モレゾンというアメリカ人。27歳の時、自動車事故に遭った10歳の時から苦しんでいる、てんかんの発作を止めるために、両側海馬切除術という実験的な手術を受けた。以後、彼はアルツハイマー認知症と同様、前向性健忘、すなわちこれからのことを覚えられないという記憶障害に陥った(⇛HM (患者) - Wikipedia)。本書は初期から彼に寄り添い、彼の失われた能力についてずっと研究を続けた心理学者による著作


さて、これからのことを記憶できないHM氏は、コーキン女史に会う度に、初めましてだったのだが、しばらく後からは彼女のことを高校の同級生と認識していたらしい。その理由ははっきりわからないが、HM氏にとって高校の同級生というのは好感のもてる馴染みのある人が多く、そのためにコーキンさんをその記憶に当てはめたのかもしれない(著者もそこまで突っ込んでは書いていないけど)。


綾野さんは、なんのかんの言いながら常に(初対面と認識されるはずの)dneuroには好感を持って会っていてくれた(うぬぼれでありませんように)。私はHM氏にとってのコーキンさんのように、何かしら記憶の中の「良い人」の面影を持っていたのかな、などと思ったりする。もしくは好みの男だっただけかもしれんけど…。

*1:綾野さんが3番目の夫を振り返る口調は厳しい中にも愛情を感じさせるニュアンスは感じ取れた。しかし一方で、夫の死というものは妻たるおばあさんたちに大きな衝撃になっていないことも多いようだ。ある認知症のおばあさんが楽しそうにしているので尋ねたところ「今日夫の葬式なんですよ!」と明るく言われたことがある。この数日毎日そういう状態のようで、夫でもある我が身としては聞いていて悲哀感を感じたもの。もちろん中には、健忘があるために夫の死を記憶できず、毎回聞く度に悲しそうな顔をするおばあさんもいた。前者の方が幸せだとは思うけどね…。

2016年も早く過ぎた人へ

あけましておめでとうございます。

今年も精神科系や心理系を含めた医療系の話題について神経科学者と臨床精神科医的視点から書ければと考えています。


さて、まあ毎年のことながら、2016年も早く過ぎ去って、やりたいことのどれだけができたんだろうと些かの後悔や罪悪感をもって今年を迎えたわけだが、なぜ大人になるほど時間は早く過ぎ去ってしまう(ように感じるのか)のか。きっと他にも2016年が早く過ぎてしまった…と嘆く人は多いハズ。


主観的時間感覚の子供と成人の差

 なぜ今は1年があっという間に過ぎてしまうのに、子供の頃は1年がとても長かったのか?勿論、物理的な時間の長さは基本的には誰にとっても平等に同じはずであり、子どもの1年が大人より長いわけではないことを考えると、実際には「感じ方」の問題となる。つまり時間の長さの感覚は主観的なわけで、その感覚を「主観的時間」と呼ぶ。これは年を重ねるにつれて長くなるか?短くなるのか?
 
 実は、この子どもと大人の主観的時間感覚の差、というのは前々から実験されており、また理論的にも考えられている。


 1つは、子どもは心拍数が早い
これは動物一般に言えるが、小さい動物ほど心拍数が早い。だからネズミは象に比べて遥かに1分間の心拍数が早い。その数なんと1分間に600回。人間も赤ちゃんの脈拍数は1分間に140回くらい。小学生が110回程度。一方成人すれば60回まで減る。つまり大雑把に小さい子供は大人に比べて2倍の心拍を1分間に打つのだが、言ってみれば、大人の1秒は子供にとって2秒の重みを持つということになる(はず)。だから時間の長さは客観的には同じでも子供には長く感じられる。


 一方、ジャネーの法則(⇛ジャネーの法則 - Wikipedia)なんてものがあって、こちらは5歳にとっての1年と50歳にとっての1年では、それまで生きてきた長さに対しての重みが違うだろうと。つまり、5歳にとって1年365日は生きてきた日数(1825日!)の20%も占めるが、50歳にとってみれば18250日のわずか2%。その重みは年とともに益々小さくなるから、1年が経つのが早い。


 刺激が多いほど、魅力的に感じる時間が多いほど、主観的時間が長く感じられる、という研究結果もある(経験的にも明らかですね)。退屈な時間は記憶の中でぽっかり抜け落ちる。未経験なことばかりの5歳にとって1年は沢山の新しい記憶で埋められるが、80歳にとっての1年は経験したことばかりで、振り返った時に思い出せる刺激的な出来事はごくわずか。


 dneruo的には退屈な時間が抜け落ちることはしっくりくる。初めての土地に行くとき、往路はたどり着けるかという不安も強く、長く感じる一方で帰り道はあれ?と思うほど短く感じることが多いでしょう?記憶を辿れれば早いし、そうでないと長く感じる、というのであれば、これからのことを覚えていられない認知症の方は子供のように主観的時間感覚が長いのだろうか…。

ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書)

ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書)

ネズミとゾウの心拍数の差といえばこれ。著者の本川達雄先生、随分個性的で、以前話題にもなった。
曰く、心拍数の生涯回数というのは基本的には一定であるため、心拍数の異常に早いネズミはゾウに比べて寿命が短いことになる。
ちなみにゾウの心拍数は3秒に1回!1分間に20回程度しか無いことになる。これは体重の4分の1乗らしい。生涯心拍回数は15億回ということだから、人に当てはめると約26年。人間は例外なのだ。
 
www.athome-academy.jp

実際ネズミの1秒がゾウの1秒と主観的感覚が一緒だったら多分あっという間に生涯が終わってしまうだろう。だから、確かに心拍数が主観的時間感覚を決めるというのも頷けるところはある。
しかし、私dneuroは基本頻拍気味で、大体80-100/分なので、生涯心拍回数が決まっているとすると短命ってことかよ、とは思った。