優しい薬物療法を目指したい(1)
精神科や心療内科に訪れた方が時々口にするのが、「カウンセリングじゃ駄目なんですか?」という問いで、その言葉を聞く度に、精神科というイメージが持つ誤解や、時間制約のある現代精神医療の中では薬物療法が中心にならざるを得ないことや、名医と言わずとも良医ではありたいと思っているdneuro自身の力不足など思い浮かぶ。…とはいえ、精神科医療に薬物医療は必要であり、でもそれは優しいものであるべきとは考えている。
優しい薬物療法が基本的には必要と考えている
前に書いたように、薬は病気からの自己治癒力を支える杖のようなもの、と考えるといいのではと。
薬物療法は本質的治療といえないが、良い杖は生活を支えてくれるはずだ。
薬なんかに頼りたくない、という気持ちはわかるけれども、骨折してギプスで固めた足があるときに、松葉杖頼らないで暮らして生活圏が狭まっては勿体無いでしょう?
ちなみに、病気の根源を絶つ、というのを本質的医療というなら、多くの病気で実はそんなに根源的治療にはなっていない。糖尿病、高血圧、高脂血症、各種心臓疾患、がん、多くの病気がどのように引き起こされるか解明が進んでいるが、だからといって原因療法ができるとも限らないのだ。
誤診、病態に合わない量、同じ薬理メカニズムの薬の重複、副作用が強いのに使い続ける、効果がないのに漫然と続けている…
診療において誤診は実は少なくない。診断に沿った薬が使われなければそもそも薬は効かない。そんなことあるの?という疑問も持たれるかもしれないが、ある程度治療行為による介入が進んで初めてわかることもあったりはする。診断的使用という言葉があるくらいだ。
病態に合っていない多い量が強い副作用に繋がりかねないのは当然。でも実は、少なすぎるのに、効かないという判断を早くしすぎてしまうこともある。細菌をやっつける抗生剤で考えてみるとわかりやすいが、一定量の細菌群を殺すためには、それなりの強さの薬を使う必要があるのだ。弱い、病態を改善させるのに不十分な量の薬を漫然と使ったって改善するはずがなく、またきちんと判定できないのにその薬を諦めてしまうのは勿体無い。薬は少なければ少ないほどいいのではなく、病態改善に十分な必要最低量が望ましい。
同じメカニズムの重複は精神科医療の暗い歴史の中に歴然とある。今もそれは反省すべき現象で、以前統合失調症が適正化するかという話題で書いてみた。
平成28年度診療報酬改定は精神科における多剤併用大量療法を駆逐するか?
同じメカニズムの薬をいくら重複させても、基本的には意味がない。例えば抗うつ薬SSRIに属する、パキシル(一般名:パロキセチン)とジェイゾロフト(セルトラリン)を一緒に服用したって、同じセロトニン再取り込み阻害作用が発揮されるだけなので、2種類使うよりは、パキシル最高量、ジェイゾロフト最高量という単独の最高用量までtryしてから切り替えるのが標準的なのであって、重複使用はどちらが効いたのかもわからず、また副作用が複雑になる。実際の所、効果発揮メカニズムは同じでも、薬によって若干構造の違いがあることが、効きめの個人差や副作用の出方(こういった特徴をプロフィールと呼ぶ)に差が出てくるものなので、重複使用は事態を混乱させてしまう。とはいえ、状況によっては選択肢としてはありうるので、あくまでも基本的スタンスだが。
副作用が強いのに使い続けることもよく見られる(もちろんそうでないように努めているつもりですが)。精神医療においては、一旦処方してそのまま、病態回復しても使用続けた時、そしてお節介な副作用どめ使用、という形が多いのではないかと。
例えば、気分変動が続くので、最初に処方した抗うつ薬ジェイゾロフトに加え、感情安定薬リーマス(炭酸リチウム)を加える…まではいい。でもそのリーマスが効果なかったと判定したのに続けながら別な感情安定薬であるデパケン(バルプロ酸)まで加えて経過を見たら、それは出しすぎというもの。効果を発揮させるために加えた薬は、なんとなくそのまま使ってしまいがちなので、戒めたい。患者さん側も、減らすのが不安だからそのままのほうがいいです、という方がいたりする。
また、大体が、効果を発揮させたいときには、それが効くべき病態があるので薬がちょうどよく働き、副作用が出ないことが多い。一方改善してきたら効くべき病態が無いので、効果そのものが副作用になることもある。例えば抗不安薬は不安を鎮めるが、不安でないのに使えば眠くなったり集中力を落とす。必要なくなったら薬は減量すべきだ。
そして、dneuroが医師になりたての頃、副作用どめは最初っから入れておくべきと習ったが、今その発想は基本的にはしない。なにせ、副作用どめも薬である以上副作用があるのだ。効果を狙う薬の副作用が出るかどうかもわからないうちから、副作用の可能性だけ増大させても益は無い。
効果が無いのに漫然と使用。*1抗うつ薬や抗不安薬、睡眠薬で顕著に目立つ。とりわけ症状が重い時に効果があった薬を減量したり、やめるのは医療者側にとっても患者側にとっても勇気がいることが多い。
でも、そもそも医療なんて必要ないに越したことはないのだ。
十分に回復したら、必要ない医療から脱出を図るべき。
ところで、認知症についての講演で必出の質問がある。
「アルツハイマー型認知症の初期にしかアリセプトは効かないといいますが、もう5年も出ています。効果はあるのでしょうか?」
もちろん、個人差はある。もしかしたらアリセプトの持つ興奮作用がいい方向に働いているかもしれない。でも大抵の場合において、アルツハイマー型認知症が発症して5年も経ったらもうアリセプトは何も効果を発揮していないはず。医療コスト的にも良くないよね…。MRさんは使っているから有り難いと思うでしょうが、きちんと助言してね、と思う。
- 作者: 姫井昭男
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ADHDに使う薬については簡単過ぎるが、それ以外は概ねわかりやすい。これを読めば自分の治療薬の把握と、医師への質問もしやすくなるだろうと。
- 作者: 山崎豊子
- 出版社/メーカー: 新潮社
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ちなみに、「白い巨塔」で中心となる教授選、少なくてもdneuroの知る限り、今の教授選はすごいクリーンですよ。
知って面白い医学史
医学史は面白い。それは不謹慎だが人体実験の歴史だし、今から見るとまさかそんなことを権威じみた偉い人達が言っていたんだ、と当然こちらは後出しじゃんけんなのでずるいのだが、正しい治療に至るまで苦闘の歴史が偲ばれるというのもあるのかもしれない。
- 作者: トレヴァー・ノートン,赤根洋子
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先日、「飲んだ、治った、効いた」の判断には注意しなくてはいけないと書いたけれど、治ったという判断ではなくて、飲んで病気になった、という判断の方も怪しいことはある。正しい例外は、胃潰瘍と胃がんの原因になるヘリコバクターピロリ菌で、オーストラリアのバニー・マーシャルが自ら飲み込んだ10日後に胃潰瘍を発症したことが決め手になった。医学史上、非人道的な人体実験がされていたことを理由に今では医学実験(治験)は大変面倒な倫理検査と、同意手続きを経て行われるが、マーシャルさんは「同意できるほど十分に説明を受けている人間は、私しかいなかったから」と自らを実験台にした理由を言う。マーシャルは2005年にノーベル賞を取って報われたけれども、自己を対象に報われない人体実験をした医師・研究者は沢山いらっしゃる。
本書の第1章の主人公は18世紀のロンドンの外科医、ジョン・ハンター。外科医の教育には遺体の解剖が不可欠と考え(それ自体は正しい)、そのために沢山の遺体を確保すべく墓泥棒とも結託したらしい(当時は献体という制度がないので…)。さらに、今もそうだがもっともポピュラーな性感染症の1つである淋病と、流行復活の兆しの見える梅毒は、18世紀同じ病気と考えられていた。1767年、ハンターは淋病患者の膿を自らの性器にこすりつけ、その淋病患者が偶然梅毒にも感染していたために両方に感染した。多分、彼は同じ病気と誤解したままだったはず。もしこんなハンター先生の奇人ぶりを知りたければこの本がいいらしい。
- 作者: ウェンディ・ムーア,矢野真千子
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内容はこの方のblogに詳述されてしまっているけれども。
解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯
ところで、もちろん、今やっている治療が正しい、と決めつけるのは傲慢で、現在も20年後から見れば歴史であることを考えると、多分間違っていることも沢山やっている。でも、間違いや行き過ぎ、は今はわからない。そんな中でも例えば、抗がん剤治療は、ほんの10年前から見て今は随分と副作用に配慮されてきているように思う。近藤誠氏の「ガンと戦うな」は、氏の「結果から見てしかわからないがんもどき」理論を受け入れがたいのだが、それでも当時主流派のひたすらガン縮小が大事的発想に対して疑念は呈してくれた。主流・潮流になっている医療は時に病気を叩くことに行き過ぎになってしまう。でもその揺れ戻しが来て、というのを繰り返し、次第に結局何が大切なのか、を熟考できるようになる気がする。ガンだけでなく、高血圧しかり、高脂血症しかり、征服するだけが医療の発展ではないのだ。もちろん精神科も同様であって、統合失調症の治療に関してはようやくゴールを病気の軽快以外の点に置く発想が定着してきたように思う。
とはいえ、これまでこのblogで述べてきたように、主流派であり標準的な医療は、基本的には膨大な実験やダブル・ブラインドの治験を経ており、それを頭ごなしに否定してしまうのはおかしいことがほとんどだ。dneuroは治療で漢方も使うし、何しろ学生時代東洋医学研究会の部長だったので、別に漢方否定派じゃないんだが(⇛漢方って何だ?)、時に漢方絶対派の方に遭遇するとげんなりする。日本では、江戸時代末期まで、人の想像をベースにした東洋医学(当時は東洋なんてつけないけどさ)が全てであり、物理的存在を対象とした実証主義で無かったし、天然痘ワクチンとなる種痘の普及をどれだけ当時の主流派である漢方医たちが邪魔したのか知らないの?と問いたくなる。頼むから福井藩の町医者、笠原良策の決死の努力を知ってくれ。
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ところで、先日紹介した「外科の夜明け」はさらっと内容を読めるのだが、実は作者トールワルドの原著の大幅な抄訳。完訳版はこちら。
- 作者: ユルゲントールヴァルド,J¨urgen Thorwald,小川道雄
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- 発売日: 2007/05
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この人は医学史を、作中主人公が、医学史を発展させた医師たちの同時代人として生き、その発展を見て、体験していくドキュメンタリー仕立てとして書いている。
胃がんの手術といえば、ビルロート法(第1法と2法がある)という胃の摘出術があるのだが、手術法が開発された当時、外科手術そのものが冒険だった。主人公は若き妻に何とか手術を受けさせるよう奔走するのだが、結果的に妻は受け入れず死んでしまう。
外科医になりたい人は是非この本を読んで気持ちを高ぶらせ、外科医に憧れる人はこの本で疑似体験を。
外科の夜明け―防腐法 絶対死からの解放 (地球人ライブラリー)
- 作者: J.トールワルド,J¨urgen Thorwals,大野和基
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- 発売日: 1994/12
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医学生は将来ダークサイドに落ちないでね(2)
部活も大事だが、思考法もちょっと磨いてみて欲しい。*1
ダークサイド、というと悪いことを自覚的にしているようにも思えるが、実際には効かない医療を信じ込んでしまっている場合があったりする。
自分の経験や、「独自の研究」から導いた結論を信じ込んでしまっている先生方もいて、そういった先生方は、元は善意なものだから、訂正しようが無い。このblogでこれとか、それとか、おかしいよと言うのも、本人が良いと信じてやっているなら名誉毀損で訴えられそうでし辛いものがある。
ヒトの脳の癖を知ろう
ヒトの脳というのはとにかく騙されやすいってことに自覚的になると少しはおかしな理論に対して免疫ができるんじゃないかな〜とこの数年思うのです。
人がどうしようもなく「信じたがる脳」を持っているその理由のキーワードが、バイアス。
ヒューリスティクス
数多くあるバイアス、つまり思考上の偏り、思い込みの中でも誰もが日常的に行っている行動がこれ。
何かって言えば、「必ず正しい答えが導けるわけではないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることが出来る方法」のこと。ヒトだけじゃなくて動物だってそうなんだが、生きていくための情報判断の基本戦略だ。例えば、トラの生息域で、ヤブの向こうに隠れ見える縦縞を見た時に、
1. トラ 2. トラに似た模様の倒木
どっちと考える?と聞けば普通は1でしょう。
2だと思ってモタモタしていたら命が幾つあっても足りないわけで、確実性には劣るが、確実であることを待つわけには行かない状況では極めて有効に働くことが多い。
答えの精度は保証されないが、回答に至る時間が短くて済むのだ。
人も動物もヒューリスティックに物事を捉えるので簡単に無関係なものを関係があると思い込む。「雨乞い」なんて典型的だろう。日照りが続いて続いてもう限界というところで雨乞いをすれば、そろそろ雨が降る確率が高いわけだが、「雨乞いが雨を招いた」と結論付けるから、次の日照りからは雨乞いをするのだ。
我々はバイアスの中に生きている
日常自分がどれだけ偏見に基づいて物事を判断しているか考えてみて欲しい。
例えば「少年犯罪は激増している」なんて言葉を聞くともっともらしく思えたりする。だって、ワイドショーではしょっちゅう凶悪な少年犯罪を特集してるし、多いからこそ厳罰化なんて話が出てるんでしょう?と。
ところが、実際には現代は戦後最低の少年犯罪数で推移しており、率も低い(⇛
犯罪件数・少年犯罪が史上最少更新 「犯罪激増」と言うマスコミの謎)。
ついでに興味のある人は警察庁の統計を⇛少年非行情勢(pdf)
なのに、多い、と感じてしまうのは、メディアの発達と少ないからこその報道の多さとその詳しさで勘違いしてしまうのだ。
こういう、情報によって思い出しやすい考えが出来てしまってそれに基づく判断してしまうのを「利用可能性バイアス」という。
(ヒューリスティックな決めつけは利用可能性バイアスの1つだ)
その他にも以下のようなバイアスがある。
・後知恵バイアス: あの検査をしていれば助かったはず、という医療過誤への発展。
・代表性バイアス: 白衣を着ている女性は看護師。
・平均への回帰: 2年目のジンクス…本来の実力は1年目の神ってるようなもんじゃないのよと。確変でテスト100点取ることもあろう。
・ギャンブラーの誤謬: コイントスで続けて4回裏だったから次は表じゃないかな(確率はその都度1/2なのに…)
・アンカリング効果: 同じ犯罪でも、求刑が4年と7年では、判決結果が異なってしまう。
医学生として取るべき姿勢
何かしらもっともらしそうな言説を聞いた時に、君らの取るべきdneuro的姿勢は以下だ。*2
・提供もしくは引用されたデータや文章、言葉を鵜呑みにしない: オリジナル文献を読んで裏とりをしよう。メディアはしばしば論文内容を誤解、曲解し、時に論文で言及されていないことまで言ってしまう。
・権威を無批判に信じない: 医学も科学である(べき)以上、権威の言うことであっても盲信してはいけない。批判的吟味をしよう。
・数字にだまされない; 統計データだからと無批判に受け入れてはいけない。有意差があっても、臨床的に意味のない結果は数多く、また相関は得てして因果と勘違いされる。
・ある説を受け入れたら次にそれを疑う(信じるまでに一旦留保する): すげえと一瞬思っても、すぐに検証しよう。その説は得てして期待はずれだから最初に信じ込まないようにしよう。信じてしまうとアンカリング効果が働いて訂正しづらくなる。
・きれい過ぎるデータはまず嘘だと思え: 医学の結果は複雑な人間の生理を経た曖昧な結果であることが多い。あんまりキレイな曲線がグラフに描かれていたらむしろ疑おう。
・「絶対…」「必ず…」「…の可能性は無い」も仮説: 強い口調は疑ったほうがいい。何ごとも例外があるものだ。
- 作者: E.B.ゼックミスタ,J.E.ジョンソン,宮元博章,道田泰司,谷口高士,菊池聡
- 出版社/メーカー: 北大路書房
- 発売日: 1996/09
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飲んで治ったら効いた、は疑え
「私も最初は疑っていたんですが、何ごとも自分で体験しなければいけないと思って具合の悪い時に飲んでみたんです。そしたら、ほんとに効くじゃありませんか!もうこれは興奮してしまって、外来の患者さんにも機会があれば飲んでもらったんですが、本当に劇的に効くんです。」
熱烈な漢方支持者や、ホメオパスとなった医師からこんな言葉や文章を聞いたり見たりすることがある。*3
実際こういう、「最初は疑念を持っていたのに、その効果を自ら納得できた専門家」の言葉はもっともらしく聞こえ、いかにも信頼が置けそうだ。
でもね、それで効果を判定してはいけないんですよ。二重盲検試験を経なければ、それはその人の個人的体験にすぎない。素人じゃないのだから…。
飲むときには、効いたらいいなという期待値が働く。そして尚素晴らしいことに、飲んだ後何であれ症状は緩和されることが多いが、それは自然経過と区別がつかない。
患者に投与しても効いたんですよ、という反論には、そもそもあなたが「効きそうに思う」患者に対して「効くんですよ〜」といって薬を出したら、それはもうプラセボ効果出しまくりというもんだ。砂糖玉だって効くだろう(ホメオパシーはまさにそうですね)。
ほんとーに効果を論じるのならば、「飲んだ、治った、効いた!」の3た法(高橋晄正)になっていないか強く戒めるべきだ。*4
医学史を知ろう
医学の歴史は間違いの歴史。
先人の医家はもーのすごい間違いを繰り返してきて、科学性を基盤とした権威への挑戦者が正してきた。
ギリシャ医学の医の倫理「ヒポクラテスの誓い」で有名なヒポクラテスは立派な医師だったけど、当時の医学は解剖を基礎としていないから、人体構造も生理学も発展しておらず、人間の身体は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つの体液の調和で健康が保たれているという思想だったし、その「想像」は何世紀にも渡り欧州では真実だった。
欧米には、「瀉血」が流行った時代がある。発祥はギリシャだが、瀉血は一時はどんな病気にも効く中心的医療となって、瀉血のためのヒルが使われたりした。もちろん血を抜くことは、限定的な条件下を除けば、身体に負担を強いてしまう行為で、治療どころか病気を悪化させてしまう。アメリカ建国の父、ジョージ・ワシントンは、倒れた時に大量の瀉血療法を受け(2リットル近い血液が抜かれたらしい)、まあそれで殺されたようなものだ。
正統医学(多くの医師が正しいと認識している一般的な医学)は、かつては権威の説(想像)に盲従していることが多く、数多くの間違いを繰り返した。しかし、治療法の検証に、二重盲検試験のようなバイアスを排除した厳密な臨床試験を用いることが一般的になってようやく現代医学は殆どの場合において信頼に足りるものに発展している。
間違いを科学的手法で正してきた医学史の歴史を学ぶと、同じ間違いを自分がしていないか、自分自身を検証可能になる、と思う。
- 作者: 手塚治虫
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外科の夜明け―防腐法 絶対死からの解放 (地球人ライブラリー)
- 作者: J.トールワルド,J¨urgen Thorwals,大野和基
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ちなみにこの本は、消毒法と麻酔法の歴史を軸に、外科学の歴史が書かれているが、読む人は選ぶ。昔の手術描写はグロいのだ。医学生なら必読。
*1:ご存知の方もいると思うが、医学部生はほんとに部活ばかりしている。それまで部活動を出来ていなかった反動からか、朝から晩までとにかく運動部活動に勤しむ学生は多い。dneuroだって医学部生時代の中心は部活だったし、そこで彼女も出来たし、今も有り難い先輩後輩関係がある。でも教員の立場で学生を見てると、現代医学の実践に必要な知識量を考えたとき、もう少しばかり勉強してほしいなあとは愚痴りたい。
*2:書いてて思うがジャーナリズムの基本と重なるのでは。メディアの科学記事が全然裏取っていないのを見る機会が多く残念なのだが。
*3:感覚、は勿論大事。でもそれは「自分の」感覚であって、普遍ではない謙虚さを持つ必要はあるでしょう、と思う。尊敬していた先輩医師がホメオパスになった時、非常に悲しかったのを思い出す。
*4:高橋晄正氏は東大物療内科の医師だった。一時もてはやされたアリナミンの薬効に疑念を抱いたことで有名。市民運動家でもある。dneuroは氏の活動全てに賛成するわけではないけど、飲んで、治って、効いたと判断する危険性については氏の著作で頭に焼き付いた。
医学生は将来ダークサイドに落ちないでね
研究者の中で気の置けない仲間と話していると、時折「あぁあの人はダークサイドに落ちたね」と語ることがある。
それが他のグループでもそうなのかはわからないが、分かる人はわかると思う。
ダークサイドに落ちるとはなに?と疑問抱くかと思うが、我々の仲間内では凡そ以下のような場合が当てはまる。
1.誤っている可能性が高いことを正しいことのように発信する。
2.確定していない学説や俗説を、証明されたかのようにパブリックな場で断言する。
医者の場合は、その行為(医療行為)に影響力が強く、また誤用や悪用で金儲けができてしまうため、ダークサイドに落ちる罪は大きい。
ちなみに、ここでいう正誤の判断は、現在入手できる科学的根拠(エビデンス)に依拠している。
ただ、何が正しいか、というのは厳密には難しくて、信頼の高い学術雑誌(NatureやScienceを筆頭とする科学誌のことです)これまでに積み上がった証拠から恐らくは本当だろうという推測が十分に成り立っている仮説(例えば恐竜の絶滅にはユカタン半島に落ちた巨大な隕石が関係している、とか)などあるわけだが、記憶にまだ新しい小保方さんのSTAP細胞騒動とか、論文捏造で話題になった降圧薬ディオバンの事件などがあるわけで、権威だから絶対的でないというのもある。
ダークサイド医療ってなんだ
定義は難しいけれども、
エビデンスがまだ確立されていないものを、さも確立されたかのように患者(読み手、聞き手)へ情報提供し、実際に医療行為(保険・自費問わず)を行うこと
かな。
以前疑似医学入門という記事を書いたが、そこに挙げたように具体的なキーワードは例えば以下だ(再掲)。
ホメオパシー、マイナスイオン、手当て療法(気の注入)、高濃度酸素水、活性水素水、バイオリズム、ゲーム脳、酵素療法、がん免疫療法、EM菌…
この中には、え?それって何らかの根拠があるんじゃないの?と思うのもあると思う。
例えばホメオパシーは、日本ホメオパシー医学協会(JAHMA)といったいかにも根拠持って実践していそうな団体まであるので、科学的根拠があると誤解されやすい。だけど、JAHMA自体が認めているように、「効く」根拠は「科学的に証明されていない」(ホメオパシーとは)。認めていないのに、効果をうたえるというのは謎としか思えない。
あれ、がん免疫療法はどうなの?と言う人もいるかもしれない。そう、つい最近話題になっているオプシーボ、あれ免疫療法じゃないの?と思う人は鋭いが、今回話題にするものとは全く違うもの。
喧伝された免疫療法は、人が自然に持っていて、がん細胞を見つけて殺すというナチュラルキラー細胞(NK細胞)を個人から抽出し、それを何らかの処置によって活性化・増殖させてまた取ってきた本人に戻すことでガンをやっつけるという形で沢山の診療所が自費で行っていた(いる?)。
実はdneuroが初めてそれを知ったのは医学部に入学した年(20年以上前だ)で、NHKで紹介された番組だった。採取した血液に、幾つかの漢方薬をブレンドしたものを振りかけて活性化させ、それを戻すことで末期がんの方も助かるという。
既に医学部に入学していたので、こんな凄い治療を将来習うのかと胸踊らせたし本も読んだが、待てど暮せどそんなことは習わない。まだ未確立だからかと何となく納得していたものの、いくら待っても同種の「免疫療法」がちゃんと紹介されることは今に至るまで無く、結局理論的期待だけの、カッコつきの治療行為でしか無いことがわかった。本当に効果がある治療を学会が放っておくというのはまずあり得ないことだ。それに効きめがあるとわからない、有効・無効の指標になる数字が示されていないところが殆どで、それに賭けるには余りに高すぎるんですよ、正直。最後の賭けに投資してどのくらいの方が失意を抱いたのか知りたい。ガンで死んだ親父にやってみる気にもならなかったのは言うまでもない。
上記気をつけるべきキーワードの他のは説明するまでもなく全てまやかしだが、水素水に関してはこの間国民生活センターから解析結果出ましたね。
でも更に付け加えると、
にんにく注射、プラセンタ、点滴療法、グルタチオン点滴といったのをうたっているのは、全て金儲け狙い。まあ納得づくのニーズがあるならしょうがないかもしれませんが…。
我が精神科領域ではどうだろう
精神科医療は、かつて学生運動華やかなりし頃は医療自体否定されることもあったようだが、現代では形を変えて、「薬物療法は悪だ」と声高に叫ぶ人(医師も!)、雑誌が出てきているし、それについての批判は以前書いた(⇛週刊現代の医学批判を考える)。
最近罪が重いと感じるのは、これまた以前書いたNIRS(光トポグラフィー検査)に関して、何だか広告が増えてきたことで、うつ病診断の決め手みたいに宣伝している医院もあるが、根拠レスなのは以前書いた通り。
光でうつが診断できる? ちょっとそれはという問題 (1)
光でうつが診断できる? ちょっとそれはという問題 (2)
NIRSに関しては最近日本うつ病学会も、安易なNIRS検査に意義が無いことを声明として発表している。
双極性障害およびうつ病の診断における光トポグラフィー検査の意義についての声明
ただ、なんというか、dneuro的には以前書いた通りどんなに注意深くやっても少なくてもうつ病の診断には意味を感じないので、保険適応になったこと自体が誤っていると感じる。私のクリニックで出来ないこともないが、うつ病や双極性障害診断目的にはやりませんよ。
他にセロトニン濃度測定でうつ病の重症度診断、なんてのも似たようなもんだ。
それにしてもなんでまたダークサイドに落ちる医者が後を絶たないのか...
ある意味、わざと、意識的に、金儲けのためにやっているのであれば、おかしなこと、間違っていることはわかっているわけで、むしろ心配は、ビリーバーさんになっていること。その背景には医学部で科学的思考が身につかないことにある。
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- 作者:村松 秀
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綾野さんと認知症の記憶について
綾野さんは手強かった
綾野さんはアルツハイマー型認知症。大正生まれ。
dneuroは老人ホームの嘱託医なのだが、入居した方にはまずは何か精神・神経的な問題を抱えていないかを診察する。
綾野さんの診察時、看護師からの依頼があった。
「とにかく頑固で、爪も切らせてもらえないのでなんとか説得してくれないか」
そんなわけで、自分としては説得するぞという強い気概を持って初診察に臨み、話をして数分、看護師が手を焼くに十分な「突破力」をお持ちの方だと思い知らされる。
「綾野さん、爪切りましょうよ」と私。
「切りません!」とは綾野さん。
「でもね、爪切らないとゴミが入ったりして不潔だし、身体傷つけちゃいますよ」
「何言ってるの、あんた。私はね、爪の間にゴミを挟むような汚いことはしていないし、身体を傷つけるような間抜けでもないんですよ!」
「いやそうはいってもね、やはり危ないし…」
「わたしゃね、自分の意志でこの爪を伸ばしているんだし、それで悪いことも起こしていないわけ。そういう自由が私に無いとでもいうわけ??」
ここまで言われて、個人の自由を尊重する崇高な人権意識が無いわけではない身としては屈服せざるを得ない。
「いや、そうではないですよ……わかりました…」
看護師から怒られたことは言うまでもない。
後日機嫌のいい時にベテランの介護士が同意を得てささっと切ったという。
さて、そんな綾野さんとは2週間に1度の診察機会があった。綾野さんの人生は波瀾万丈で、職業的意識を越えて聞いているのが楽しかった。
戦前に2度の結婚と2年以内の離婚、それぞれ娘を1人設けているのは珍しいのではないか。そして戦後にもう1回最後の結婚。3人目のご夫君が亡くなって後、ホームに入居となった。
ある日は3度も結婚した綾野さんに結婚について聞いてみた。
「結婚に値する男はいなかったねえ…」
「最後のね、やつはずっと私に惚れていたんだよ。だから一緒になってやったんだ」*1
レクリエーションとして来たフラダンスサークルの方々の公演には行かないというので理由を聞いてみる。
「あんなニセモノには行かないよ!」
本は好き、というのだが理解力が下がってきたこともあり、雑誌を勧めてみる。
「雑誌はくだらないから読まない」
毒舌の綾野さんには、スタッフも手を焼きつつ親しみを感じていたようだったが、入居3年、心不全を患い、いよいよ死期も近いのかなぁという日に会いに行く。いよいよ元気もないかと思いつつベッドに近づいたとき。
「また来た?120歳まで生きる権利があるけど、権利は行使出来ると限らないからね」
帰り際、綾野さん、またね、と挨拶すれば「また、はくさいから嫌だね」
綾野さんは2009年5月14日7時49分肺炎で死去。享年89歳。
覚えていたかは怪しいけれど…
綾野さんには、明らかに記憶障害があり、正直私の顔を覚えていたかは疑問だ。それでも、当意即妙の受け答え、皮肉の聞いた言い回し、そして悪戯っ子のようなチャーミングな表情は認知症そのものが進んだ晩年になっても衰えることはなかった。
認知症だからその人の認知機能が全て衰えるものではないのだ。
- 作者: スザンヌ・コーキン,鍛原多惠子
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さて、これからのことを記憶できないHM氏は、コーキン女史に会う度に、初めましてだったのだが、しばらく後からは彼女のことを高校の同級生と認識していたらしい。その理由ははっきりわからないが、HM氏にとって高校の同級生というのは好感のもてる馴染みのある人が多く、そのためにコーキンさんをその記憶に当てはめたのかもしれない(著者もそこまで突っ込んでは書いていないけど)。
綾野さんは、なんのかんの言いながら常に(初対面と認識されるはずの)dneuroには好感を持って会っていてくれた(うぬぼれでありませんように)。私はHM氏にとってのコーキンさんのように、何かしら記憶の中の「良い人」の面影を持っていたのかな、などと思ったりする。もしくは好みの男だっただけかもしれんけど…。
2016年も早く過ぎた人へ
あけましておめでとうございます。
今年も精神科系や心理系を含めた医療系の話題について神経科学者と臨床精神科医的視点から書ければと考えています。
さて、まあ毎年のことながら、2016年も早く過ぎ去って、やりたいことのどれだけができたんだろうと些かの後悔や罪悪感をもって今年を迎えたわけだが、なぜ大人になるほど時間は早く過ぎ去ってしまう(ように感じるのか)のか。きっと他にも2016年が早く過ぎてしまった…と嘆く人は多いハズ。
主観的時間感覚の子供と成人の差
なぜ今は1年があっという間に過ぎてしまうのに、子供の頃は1年がとても長かったのか?勿論、物理的な時間の長さは基本的には誰にとっても平等に同じはずであり、子どもの1年が大人より長いわけではないことを考えると、実際には「感じ方」の問題となる。つまり時間の長さの感覚は主観的なわけで、その感覚を「主観的時間」と呼ぶ。これは年を重ねるにつれて長くなるか?短くなるのか?
実は、この子どもと大人の主観的時間感覚の差、というのは前々から実験されており、また理論的にも考えられている。
1つは、子どもは心拍数が早い。
これは動物一般に言えるが、小さい動物ほど心拍数が早い。だからネズミは象に比べて遥かに1分間の心拍数が早い。その数なんと1分間に600回。人間も赤ちゃんの脈拍数は1分間に140回くらい。小学生が110回程度。一方成人すれば60回まで減る。つまり大雑把に小さい子供は大人に比べて2倍の心拍を1分間に打つのだが、言ってみれば、大人の1秒は子供にとって2秒の重みを持つということになる(はず)。だから時間の長さは客観的には同じでも子供には長く感じられる。
一方、ジャネーの法則(⇛ジャネーの法則 - Wikipedia)なんてものがあって、こちらは5歳にとっての1年と50歳にとっての1年では、それまで生きてきた長さに対しての重みが違うだろうと。つまり、5歳にとって1年365日は生きてきた日数(1825日!)の20%も占めるが、50歳にとってみれば18250日のわずか2%。その重みは年とともに益々小さくなるから、1年が経つのが早い。
刺激が多いほど、魅力的に感じる時間が多いほど、主観的時間が長く感じられる、という研究結果もある(経験的にも明らかですね)。退屈な時間は記憶の中でぽっかり抜け落ちる。未経験なことばかりの5歳にとって1年は沢山の新しい記憶で埋められるが、80歳にとっての1年は経験したことばかりで、振り返った時に思い出せる刺激的な出来事はごくわずか。
dneruo的には退屈な時間が抜け落ちることはしっくりくる。初めての土地に行くとき、往路はたどり着けるかという不安も強く、長く感じる一方で帰り道はあれ?と思うほど短く感じることが多いでしょう?記憶を辿れれば早いし、そうでないと長く感じる、というのであれば、これからのことを覚えていられない認知症の方は子供のように主観的時間感覚が長いのだろうか…。
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曰く、心拍数の生涯回数というのは基本的には一定であるため、心拍数の異常に早いネズミはゾウに比べて寿命が短いことになる。
ちなみにゾウの心拍数は3秒に1回!1分間に20回程度しか無いことになる。これは体重の4分の1乗らしい。生涯心拍回数は15億回ということだから、人に当てはめると約26年。人間は例外なのだ。
www.athome-academy.jp
実際ネズミの1秒がゾウの1秒と主観的感覚が一緒だったら多分あっという間に生涯が終わってしまうだろう。だから、確かに心拍数が主観的時間感覚を決めるというのも頷けるところはある。
しかし、私dneuroは基本頻拍気味で、大体80-100/分なので、生涯心拍回数が決まっているとすると短命ってことかよ、とは思った。
発達障害臨床雑感
この1年、自分のいるクリニックでは発達障害の診断や現在抱えている不適応や気分障害・不眠など精神科的症状に悩む人の受診が増えた。国際的な診断ツールである、ADOS-2(本人対象)やADI-R(養育者対象)を用いての出来るだけ客観的な自閉症鑑別の手段を使っていること、そういったツールを使えて発達障害に元々詳しい心理士がいること、地理的に理科系の大学が近辺に複数あることといった条件は重なっている。ただ、実際に数、特に現在の状況に不適合な発達障害者が増えて顕在化しているのだとも思う。
疾患や障害と捉えるのが正しいのか?
以前も書いた(⇛ASDは治療するものなのか)ように、ASDにしてもADHDにしても、必ずしも「疾患」や「障害」と考える必要はない。それぞれの性質を持ちつつも、能力が環境にマッチして発揮できており、周囲から認められている人に敢えて医学的診断は必要ないだろう。「ちょっと変わり者だけどデキるよね」という存在でいい。そういう意味で、ASDもADHDも必ずしも「治す」べき疾患にかかっているわけではないし、適応している人に対して「障害」という言葉を使うのは間違っている。また、それぞれの特徴はそもそも脳が抱えている特性であって、治療目標は、ある時点で「健常状態」にころっと転換させ得るものでは無く、現在の状況に適応できる条件を整えたり、適応能力を伸ばしていく手伝いをして、社会適応を上げることにあるのだと思う。さらに言えば、その目標に必要なのは、医療の提供では不十分・役不足・期待するのが間違っているという面が強くて、診察室を出た、社会で助けてくれる存在が要るのは明らかだ。大人なら就労支援施設や地域のケアセンターなどのスタッフが大いに助けになるし、子どもには勿論学校の理解と濃厚な支援が必要だ。優しい、信頼できる大人の存在も用意して欲しい(⇛発達の子には優しいお兄さんやお姉さんを家庭教師に)。*1
みなが天才ってことはない
ASDやADHDに「理解あるつもり」の人にありがちなのは、あたかも彼らが特別な才能に恵まれていると勘違いしていることだ。モデルの栗原類さん、そして彼のTVドキュメンタリーに出てきたピアニスト野田あすかさんなど見ることで漠然とそう感じる人が多くなっても仕方がない。加えて、ちょっと古いけれども、映画「レインマン」でダスティン・ホフマンが演じたサヴァンの自閉症の男性が特異的に素晴らしい記憶力を持っていた姿が印象に残っている人もdneuroの世代より上では多い。*2
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でも残念ながら、というか当たり前だがそんな才能に恵まれた人はごく少数であって、普通は特別な能力なんて無いし、むしろ学習障害状態になっている子ども、その結果身につけるべき能力が身についていない大人の発達障害は多い。デキる人であったとしても、あの人はできるからそれでいいんだという状況には無い方が普通。少なくてもクリニックに来る人は、持っている発達障害特性が、そうでない人たちが支配している環境に合わず、障害となっているからこそ来院している。子供時代は、変わっているだけに、「将来何ものかになるのかも」と思ってしまう教師も多い気がするが、そうではなく、しっかりとケアして能力が伸ばせるように、最低限の力がつくようにサポートすることが常に必要である。
量的なADHDと質的なASD
ADHDは量的問題と感じている。以前報酬系の活性の弱さを書いたように(⇛学習できないのは報酬系の不全が問題)、ADHDの脳内ネットワークは非ADHD者と変わらないながら、必要な神経伝達物質の量が足りない為に問題が特性として出てきている。だから、足りないのを補うという意味で、薬が効きやすいのだとも思う。一方、ASDが質的の意は、脳内ネットワークそのものが非ASD者と違っている部分があり、それが独特の発想やこだわりにつながっているのではないかということ。
自閉症スペクトラム 10人に1人が抱える「生きづらさ」の正体 (SB新書)
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この本は何度も紹介している。著者で精神科医の本田秀夫氏は、ASDは「特有の発達スタイルを持つ人種」であり、ASDとそうでない人の違いは、みにくいアヒルの子の話をモチーフに「白鳥とアヒルの違いに匹敵するかも」と述べている。本田氏は、外国人と考えればいい、という例えを使うこともあったと思うが、私dneuroは、「いっそネコと考えたらどうか」と話をすることにしている。ASD者の不適合には、周囲が自分たちに何としても合わせないといけないのだという発想から逃れられないことも多い。でも、イヌの群れに1匹ネコがいたからって、そのネコにイヌと同じになれ、というのは酷だし、意味も無いことはわかるでしょう?さらに言えば、ネコにもやっぱり個性があるわけで、あの人はASDだからこうだと決めつけてしまうと、指導・対応に柔軟性が無くなってしまう(指導がASD化してしまっているみたいだ)。結局はASD的な特性があると認めた上で個性を見極めて対応していく必要がある。ちなみにASDをネコと思えという文脈で言えば、ADHDはシェパードの群れの中のポメラニアン、といったところかな。俺らの中でやっていくなら変わんなきゃ駄目だぞという感じ。
社会適応を妨げている特性
ADHDの3主徴(不注意・多動・衝動性)はよく言われるものの、私は以下の4つが社会適応を妨げている特性と感じる。それは、ワーキングメモリーの低さ、覚醒度の低さ、反抗性、報酬系の不全、だ*3。これらの機能面の弱さは主に大脳の前頭葉と、線条体側坐核と言われる神経細胞群の機能の低さに起因すると考えていい。やる気を出しても好ましい行動の習慣化がし辛く、不全感が強まり、劣等感が醸成されやすいのだと思う。
一方のASD。新しいことへの不安と柔軟性欠如、高いプライド*4、被害者意識を高めやすい、そして感覚過敏。こういった点が、新しいことに挑戦することを妨げ、人のアドバイスを聞けず、挫折に弱く、先に進めずこだわりを捨てられないことにつながっているのではないか。実はASD者にこのような特性があることが、高い能力と攻撃的な性格を持つ場合には、加害者にもなり得ると感じている。こういった性質を、自分がASD(的)であることに気づかない親が持っている場合に、子どもが非常に傷ついていることを経験する。とりわけ子どもがASDの場合、ASD(的)親の加害による傷つきは社会適応を悪くした主因と言っても良いくらいなときがある。この件についてはいずれ項を改めて。
以上、上記は雑感で、のちのち変わる可能性もあるし、私の感覚が絶対的に正しいというわけでもなく、また今日の記述には必ずしもエビデンスがあるわけではないので、注意されたし。
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なかなか良いのではと思うこのシリーズ。身近な存在や、ちょっと理解できない部下に発達障害的側面があるのでは、と考えた時に手にとって欲しい。
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ASDについての本は大分増えてきて、解説本や、ASDとしての自分を語っている本はテンプル・グランディンなど中心に多数出版されている。一方で、もっと等身大に、ASDと診断されたけどそれが今後の人生において何を意味するのか、診断されたことをどう利用していくかを当事者的目線で語ってくれる著作が日本には足りない気がする。邦訳を望みたい本。近いうち内容も取り上げたい。
*1:家庭教師はいいけど金がかかるし…と思う方、いるだろうが、実際のところ発達障害の養育にはコストがかかると覚悟した方がいい。学校教育が対応に不十分なのだから当然でもあって、単純に医療機関や対応機関に支払うコストだけでなく、費やすべき時間コストも当然大きくなる。アメリカCDCのデータによれば、ASDの子に対する支出はそうでない子に対しての支出に比べて年間で4-6倍、金額にして2,240ドル-3,360ドル、ざっくり言って25万から40万程度は余計にかかるという。
*2:サヴァンは持っている知的能力に見合わないような凄い能力を特定領域に持っていることを言う。例えば、日付から瞬時に曜日を言い当てるようなカレンダー計算、見たものを全てそのまま絵に再現できる能力、驚異的な暗算能力などが紹介されることが多い。
*3:ワーキングメモリーは、日本語では作業記憶。何か課題を遂行するときだけに一時的にオンラインに保持する記憶力のことを言う。例えば電話番号を電話をかけているときだけ覚えておくとかが当たる。訓練で伸ばすことは一定程度なら可能。
*4:ASD者の高いプライドは時に困ったことにつながる。能力として出来ないのにプライドだけは高いものだから、間違った自分を指摘されることに我慢がならず、指導を素直に受け入れられない。一番病、常に一番でないと気が済まないことにもつながりやすい。好きな選手などもそうで、例えばサッカーならメッシやロナウド、野球ならイチローや大谷翔平のようなその業界の一番だけが好きで、どうプレーをしているかなんて関係ない、という人がいたりする。結果だけが大事で、勝てない、一番になれないとそれまでの頑張ったことを全部否定してしまう。